2018年1月24日水曜日

⑫ ローマ帝国(2)「元老院と平民」の時代

《元老院》
 建国後しばらくの間、つまり前六世紀の頃、ローマ人とサビニ人による共同統治が行われた。その頃イタリア中部には土木建築に優れた技術を持つエトルリア人が勢力を広げていた。その中から富豪のタルクィニクス=プリスクスがローマ王となることに成功し、以後三代にわたりエトルリア人の王が続いた。都市建設は進んだが、その三代目があまりに傲慢であったため、耐えかねたローマ市民は決起し、前509年ついに王の追放に成功した。
 それ以後、王制はローマ人にとって2度とあってはならない体験となり、貴族と平民からなる元老院議員による共和制がとられるようになった。と、伝えられている。当時、民主制を学ぶための使節団がローマからギリシアに派遣されたそうだ。

《ハンニバルのアルプス越え》第二次ポエニ戦争
 前264~前241の第一次ポエニ戦争で、ローマはカルタゴとシチリア島での覇権を争った。カルタゴは西地中海でローマと勢力を二分する海洋国家である。長く続いたこの戦争の終盤、カルタゴ軍を率いたのが名将ハミルカル、ハンニバルの父である。九歳の息子にむかって「ローマこそは我らが仇敵。なんとしてもこの国の怨みを晴らせ」と語ったと伝えられている。

 前218年、ハンニバルはエブロ川を渡りローマへの長征を開始した。ピレネーとアルプスの山脈を越えて北イタリアに侵入。山脈の手前までは三万八千の歩兵と、騎兵八千、象三七頭がいたが、山越えで一万八千の歩兵と騎兵二千、像十八頭を失った。それでも北からの奇襲と天才的な戦術でイタリア半島を荒し回り、ローマ軍は大敗につぐ大敗だった。南イタリアのカンナエで古代最大ともいわれる決戦が行われたが、ここでもカルタゴ軍が圧勝し、ローマ軍の死者は7万にのぼった。
 しかし、ハンニバル軍には本国からの補給がなく、投石機や破城槌などの攻城兵器も無かったため、ローマ軍が持久戦に転ずると互いに膠着状態が続くようになった。

 父と叔父をカルタゴ軍との戦いで失ったスキピオが、ローマ軍司令官となり、前202年アフリカに上陸した。ハンニバル軍をローマから引き離し、決着をつけるためである。
 カルタゴは現在のチュニジアに位置している。思わく通り、本国防衛のためにハンニバルが帰還し、カルタゴ南西部のザマが決戦場となった。結果は騎兵力にまさるローマ軍の完勝であったが、その戦術はカンナエの戦いでハンニバル軍が用いた戦法とまったく同じであった。そのため、スピキオはカンナエの戦いを経験し九死に一生を得ていたのではないかと考える研究者もいる。

 敗戦の後、カルタゴは復興をとげるが、前146年ローマ軍による第三次ポエ二戦争で滅亡する。
 ハンニバルとスキピオは共に母国の民衆からは英雄として讃えられたが、政治的な策謀により失意の晩年を過ごした。ハンニバルはやがて祖国を追われ、64歳で自殺。スキピオは引退を余儀なくされて52歳で死去した。没年は共に前183年であった。


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