2018年1月15日月曜日

⑪ ローマ帝国(1) 概略


 伝説によると、ローマはトロイ王家の血を引く双子の兄弟、ロムルスとレムスによって建国された。母はアルバ国の王女であったが、叔父によって父が王位を奪われ、誕生したばかりの二人もすぐにテヴェレ川に捨てられた。


ジャック・ローラン・アガッセによる絵画の一部
 兄弟は、オオカミに拾われ、その後、羊飼いの夫婦に引き取られて成長した。羊飼いの仲間を率いてアルバ国を攻め僭王を追放した二人は、育った場所に都を建てることにした。はじめは隣り合う二つの丘をそれぞれで治めていたが、前753年に、境界を犯したレムスをロムルスが殺してしまい、それ以後ロムルスの国はローマと呼ばれるようになった。

 ロムルスの都には大勢の若者が集まってきたが、男ばかりだったので、近くに住むサビニ族から女をさらい妻にした。今度は、サビニ族が娘たちを取り返そうと攻めてきたが、彼女らが必死に仲裁したので、両軍は和解することができた。それ以後、しばらくの間ローマ人とサビニ人は交互に王位に就き統治を行った。
重騎兵

 ローマはつねに外へ目を向け、良さそうなものは何でも取り入れることで、帝国を拡大していった。ギリシアから重装歩兵戦術・神話・芸術・建築、ペルシア帝国からは重騎兵や馬術、フェニキアからは艦隊も学んだ。他民族の長所をコピーする才能に加えて、群を抜く凶暴さと粘り強さによって有能な戦闘マシンとなり、他国から財宝と奴隷の補充を続けることで発展していった。
ローマ帝国の領土(後116年頃)

 周辺諸国はいうに及ばず、西暦61年には、遠くブリテン島も支配下においた。領土の拡大は限界に達しつつあったが、その後も300年にわたってローマの支配階級は贅沢なくらしを続けることができた。さまざまな政治的戦略によって社会を操縦し、帝国の崩壊を先のばしにしたのだ。西ローマ帝国が皇帝の退位によって滅亡したのは417年だった。ゲルマン民族の侵入・モンゴルのフン族の来襲・キリスト教徒の反抗・鉛中毒や疫病などが衰退の要因になったと考えられている。


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