2017年11月24日金曜日

⑩ アレクサンドロスの世界帝国


マケドニア軍の重装歩兵部隊
 前4世紀、ギリシア北方にある辺境マケドニアのフィリッポス王は、金・銀に恵まれた隣接地域を次々に併合しながら、騎馬軍団と長槍の密集部隊の増強に努めた。それによって、部族連合に過ぎなかったマケドニアを国家としてまとめ、強国として一目おかれる存在にまで仕上げた。
 前338年、ギリシア全体の平和を願うふりをしながらアテネ・テーベ連合軍を戦場に引きずり出し、カイロネイアの決戦で勝利すると、ポリスの代表者を招集しギリシア同盟の盟主となった。

 フィリッポスは、共通の敵ペルシア征討によって同盟を結束させることを考えたが、その準備中に暗殺されてしまった。そのため、急遽20才で即位したアレクサンドロスが、マケドニア・ギリシア連合軍4万を率いて東方遠征に向かうことになった。

 よく鍛えられていた軍隊は、連戦連勝で南方のエジプトを制圧した後、5年目にはペルシアの首都ペルセポリスに達した。ここで、略奪と放火を行うのだが、その理由については、遊女にそそのかされた、夷敵の壮大な王宮に圧倒された、あるいは150年前のペルシア戦争の報復など諸説ある。ともかく、この頃から側近の父子を処刑したり幼なじみの親友を酒席の口論から刺殺したりする等、常軌を逸した言動が見られるようになってきた。
 征討の目的であった、ペルシアを滅ぼした後も西進を続け、出発してから15年目にあたる前323年にはインド北西部に達した。しかし、砂漠を越えさらには雨期の中を暑さ・熱病・毒虫やヘビに悩まされながら戦闘を続けた軍隊の疲労は極限に達し、ついにインドへの侵入を断念した。帰還の途中、バビロンに到着したところで熱病のため急逝した。享年32才だった。

 アレクサンドロスが10才の時、ブケパロスという誰も手なずけることのできない暴れ馬がいた。しばらく観察すると、馬が自身の影に怯えて暴れていることに気づいたので、おだやかに話しかけながら馬の顔を太陽の方向に向けておとなしくさせた。これを見た父王は「ああ、息子よ。余の国から出て、お前に値する王国を探しなさい。マケドニアはお前には小さすぎる」と言ったそうである。また、13才から16才までの間、父王の招いたギリシャの大哲人アリストテレスから学問を学んだ。読書を厭わず「イリアス」を陣中でも持ち歩いていたという。
 このように、学問への資質も備えていたので、軍事面だけでなくアレクサンドリア市を遠征途上の各所に建設し、ヘレニズム世界にギリシア文化を広げる役割を果たした。また、支配地の大部分をひきついだペルシア帝国の儀礼や慣習を尊重するとともに、ギリシア人兵士とペルシア貴族の娘との集団結婚式を行なったり、ペルシア人を公職に多く登用したりする等、東西文化の融合にも努めた。
 大王の死後、帝国は四つに分裂したが、商人や職人あるいは科学者や哲学者など、大勢のギリシア人が外国に移り住み、後のローマ帝国につながる文化的な素地となった。

 気高い人格と危険に立ち向かう勇気を持ち、服属者や捕虜には誠実・寛容に接し、快楽への自制心を備えた欠ける所のない天賦の君主であったといわれている。それでも、アレクサンドロスが世界征服の野望に挑んだ理由は謎であり、誇大妄想に取り憑かれていたと考える研究者もいる。


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