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マリー・アントワネットは、18世紀フランスの王妃。贅沢なくらしと奔放なふるまいが民衆の怒りを買い、フランス王政が幕を下ろす原因になったといわれる人物。彼女の生涯を、いくつかのエピソードを通じてたどってみた。(本稿はその後編)
オーストリアの作家、シュテファン・ツヴァイクの「マリー・アントワネット」上・下巻(中野京子 訳)角川文庫を参考にした。
12《 捕えられた王家 》
新聞が、絶え間なく民衆をけしかけ、王政を追い詰めていた。過激で凶暴な記事ほど歓迎され、後にエベールの発行した新聞「デュシェーヌ親父」は、王妃への下品なデマを売り物にして部数を伸ばした。
10月、周到に計画された「騒乱」によって、王家は拉致されパリに連れ出された。それは初め、パンを求める女性たちの起こした騒ぎのようだったが、やがて、彼女らを先頭にした群衆が津波のようにふくれ上がり、王宮の庭内になだれこんだ。未明に、女装の男や武装した女たちが群衆の中から忍び出て王宮内に侵入すると、槍や斧を手にした一団が後に続き、王家の寝室に向かって突進した。2人の護衛兵が殺され、王らは移送用の馬車に乗せられた。
パリ市内の、荒れはてたチュイルリー城の一部が、新たな王宮として与えられた。王城としての体裁は整えられていたが、扉の前に立っているのは近衛兵ではなく市民兵だった。
危機に直面して、遊びやファッションにしか興味のなかったアントワネットの中で、眠っていた資質が目覚めた。本を読み、日々大臣たちと協議し、暗号を学び、「他の人々のために悩むことこそ王の義務」と考えるようになった。
13《 ミラボー伯爵 》
ミラボーは、伯爵でありながら、初期の革命運動を牽引した中心人物である。指導力は傑出していたものの、私生活は破天荒で、多額の借金を抱えていた。一般的な良識の枠に収まりきれない彼を、アントワネットは嫌い怖れたが、背に腹は代えられず、王権の擁護を条件に、彼の借金を肩代わりすることにした。
ミラボーと王家の密約は極秘事項だった。革命家として演説する一方で、王家のためにも、超人的ともいえるはたらきを示した。初めは、報酬目当てであったが、しだいにアントワネットへの忠誠心を抱くようになり「王妃との約束を守れないくらいなら、むしろ死を選ぶ」と、親しい友人にはうちあけていた。
この天才的な政治家は、民衆と君主制を取り持つために奮闘を続けたが、成し遂げられないまま急死してしまう。彼の棺を見送る民衆は、30万人にのぼった。が、その2年後、王との関係が暴露されると、遺骸は掘り起こされ、皮はぎ場にうち捨てられた。
14《 逃亡を図る王家 》
ミラボーの死によって、革命側との接点を失った王家は、自由だけでなく生命まで奪われてしまうと考え、国外への脱出を決意した。王は、脱出に伴う生命の危険を心配していたが、アントワネットは王家としての面目を失うことを怖れていた。王は、どのような時も王らしくなければならないのだ。
そのため、脱出用の馬車は豪華で大型なものが用意された。分乗せず全員が1台に乗り込むのが古来からのしきたりなのだ。その分、重量が増し速度が犠牲にされた。
脱出に必要な手配の全ては、フェルゼンに委ねられた。アントワネットのお仲間たちが、民衆によるリンチを恐れてフランスから次々に脱出していく中、フェルゼンだけは彼女の身を心配して戻ってきたのだ。一旦は、姿を消し生涯独身でいることを誓ったが、彼女の窮状に寄り添い、救出に尽力する道を選んだ。
決行の日の夜10時、客や侍女たちが退出するのを待って着替え、門の外で待機している馬車まで急いだ。御者はフェルゼンである。パリを抜け出るのに手間取り、2時間の遅れが出た。
途中で王がフェルゼンを帰し、田舎町のシャロンには午後4時に到着した。大型の高級馬車が人々の目を引き、王と王の家族ではないかと噂する者が現れた。馬車の遅れと伝令の誤った指示が原因で、護衛の軽騎兵隊や竜騎兵隊と合流できないまま道を急いだが、どこまでも、王家の馬車ではないかとの噂が追いかけてきた。
ついに、馬車の先回りをして足止めする者が現れると、騒ぎを聞きつけて町中の人々が集まり、たちまち革命歌と6千人の市民に取り囲まれた。軍隊にも手出しのできない状態となり、馬車は来た道を戻らざるを得なくなった。
15《 孤立する王家 》
王家の敵は、革命勢力だけではなかった。国外に逃れた有力貴族たちも、王弟を筆頭に、王と王妃の命を危うくしていた。
彼ら自身は安全な場所にいながら、反革命を叫び、君主制擁護の派手なパフォーマンスを繰り返していた。過激な主張が革命側を刺激し、和解の道は遠のくばかりだったが、それでも挑発を続けるのは、王と王妃の破滅こそが玉座への近道だったからだ。
諸外国の君主たちも、ルイ王とアントワネットの運命には無関心だった。革命はヨーロッパから根絶やしにされるべきだが、ルイ16世がどのルイに替わろうと、構わなかった。
革命派は立憲君主制への移行を迫っていた。王権の神授を疑わないアントワネットにとって、それは神に背く耐えがたいことだった。遵守する気もないのに認め、妥協を重ねて王権を貶めることは、一本気な彼女を苦しめた。
アントワネットの苦悩を察知したフェルゼンは、すでにお尋ね者として国中に人相書きが配られ、もっとも高額の賞金がかけられている中、偽の旅券と変装で入国すると、まっすぐにチェイルリー城への抜け道を目指した。
彼が再度もちかけた逃亡計画は退けられたが、彼に会うことでアントワネットは心の落ち着きをとり戻した。去り際にフェルゼンは「また来ます」と言ったが、ふたりとも二度と生きては会えないことに気づいていた。
16《 宣戦布告 》
革命勢力も、国の実権は握ったものの急進派と穏健派のせめぎ合いが続いていた。混乱が収まらず内乱の危機が高まったので、他国との戦争に活路を見出そうとした。
王家にとって戦争は、革命軍が勝てば王冠を失い、外国軍が勝っても、逆上した市民から虐殺されるに違いない、破滅への扉でしかなかった。しかし、ハンガリーへの宣戦布告を強要され、それを拒むだけの力は残っていなかった。
アントワネットは、外国軍が圧倒的な大勝利をおさめた場合にだけ、助かる道が開けると考え、軍の情報をオーストリアに流し続けた。現代人には国家への裏切り行為でも、アントワネットにとって、国は王の所有物であり、王政に逆らうものが反逆者だった。
証拠はなかったが、民衆はアントワネットの裏切りを嗅ぎつけ、急進的なジャコバン党に煽動された1万5千人が宮殿に殺到した。王は3時間半の間、押し入った暴徒の挑発に耐え、王妃も別室で同様の辱めを受けた。その間、不安や動揺を見せず耐え通したが、彼女は破滅の避けがたいことを悟り、それならば、最後まで頭をまっすぐに上げて、義務を全うしようと心に決めた。
ある伯爵夫人が、王妃一人なら救い出せる、と提案した脱出計画を「いつの日か、わたしの今耐えていること全てが、私たちの子どもをもっと幸せにしてくれるものと願っています」と、言って断った。
17《 裏目に出た宣言文 》
城内の監視の目は、益々厳しくなり、手紙には特殊インクや暗号が使われるようになった。隠して持ち出された1通を受け取ったフェルゼンは、王妃らの命が風前の灯火であることを実感し、フランスに向けて宣言文を書いた。
「王家の人々を傷つけることがあれば、パリを焼き尽くす」との強い調子は、彼の動揺と焦りが反映された結果だったが、これが王室の危機をさらに深めるはたらきをした。
他国の連合軍からこの宣言を受け取ったフランス国民は、革命で得た全てが失われると感じた。世論が王の廃位へと大きく動き、ついに1792年8月10日の朝、宮殿を警護する軍の指揮官マンダが、市庁舎に呼び出されたまま暗殺され、死体がセーヌ側に浮かべられた。間もなくして、蜂起した群衆が宮殿に押し寄せ、国民議会の議場に避難した王家の面前で、王の廃位が提案された。
13日、王の一家は、保護の名目でタンプル塔へ移送された。わざわざ遠回りをして連れて行かれたヴァンドーム広場では、ルイ十四世の銅像が引き倒されているのを見せつけられた。
18《 王の処刑 》
王家の人々は、カビ臭い古い塔の中に隔離された。一応、快適な生活への配慮はされており、食事は13人ほどの調理人が担当していた。
子どもたちに勉強を教えた後は、いっしょに遊び、午後はすごろくや凧揚げを楽しむなど、静かな生活がしばらく続いた。
しかし、革命初期の理想を追うタイプの革命家たちに代わって、急進派と呼ばれる人々が実権をにぎってからは、かつての権力者への復讐や革命家どうしの粛清が目立つようになった。初戦で、他国の連合軍に革命軍が敗れると、民衆の動揺を押さえるために、各地の監獄から2000人の囚人を選び、血まつりにあげることを決めた。
アントワネットの友人、ランバール夫人もその犠牲者となった。首を槍の先に掲げ、群衆がタンプル塔へ押し寄せると、気丈なアントワネットも気を失ってしまった。亡命先のロンドンから、アントワネットの身を案じてかけつけ、ずっと寄りそってくれた女性だった。
その3週間後に、王政が廃止されたが、激流となった革命は、誰にも制御されないまま突き進んだ。突然、ルイ十六世が、被告として裁かれることになり、数週間後には判決がくだった。
最後の面会が許されると、彼は、ふだんと変わらないようすで話し、別れ際に「もう一度、明日の朝7時に会いに行くから」と言った。が、それは彼の善意からの嘘で、翌朝、迎えに来た重い馬車によって、王は刑場に運び去られた。
19《 2つの脱獄計画 》
信仰心が篤く辛抱強かった王は、死にも淡々と、静かな諦念をもって臨んだ。しかし、アントワネットはあきらめることを拒み、最後まで最善を尽くそうとした。
彼女のまわりは敵ばかりに思えたが、身近な人々の中に味方する者もいた。
監視兵のトゥランもその一人で、はじめは熱血的な革命派だったが、今では、王妃のために命がけの協力をするようになっていた。彼と旧臣の一人が共謀した脱獄計画は、決行する直前になって、買収した協力者に拒まれてしまった。「一人だけでも」と、脱出を勧められた王妃は、この時も、息子と別れることはできないと、牢内にとどまることを選んだ。
もう一人、彼らとは別に、王妃救出を計画した者がいた。彼は、王を処刑台に運ぶ馬車の前に飛び出し、サーベルを振り回しながら「王を救うものは我に続け!」と叫ぶほどに、ず太い神経の持ち主、大富豪のバッツ男爵である。
いくつもの偽名を使いながら、あり余る財産を、反革命の活動に注ぎ込んでいた。
彼の作戦は、タンプル塔の警備兵を、王党派の兵と入れ替えるという大胆なものだった。それを、監獄の最高管理責任者や軍司令官に多額の賄賂をつかませることで実現した。
この計画も、成功の直前までこぎつけたのだが、密告によって中断された。革命派にとって、大きな汚点となるこの収賄事件は、当局によって隠蔽されたが、性懲りなく挑戦を続けるアントワネットに対しては、犯罪者なみの監視と処罰がくだされることになった。
20《 カーネーション事件 》
アントワネットは、子どもたちと引き離され、「死の控えの間」コンシェルジュリへと移送された。ここで、彼女は最後の77日間を過ごすことになる。
戦況の芳しくない革命軍は、連合国との交渉に備え、アントワネットを人質としてなるべく生かしておく方針だったが、ある未熟な救出者の手が、彼女の死を早めることになった。
ある日、監獄長が見回りに連れている見学者の男を見て、アントワネットは息を呑んだ。旧臣のひとりルージュヴィルだった。彼は、監獄長の目を盗んで、カーネーションの中にメモを隠し、こっそりと残していった。
それを読んだアントワネットは、「脱獄の手はずがすっかり整っており、見張りの憲兵を買収するように」という意味だと勘違いしてしまう。
気のいい憲兵に、大金を渡す約束をしてルージュヴィルへの返事を託すと、彼は困惑し掃除婦に相談した。そのようなことを繰り返すうちに、当局の知るところとなった。アントワネットは、関係者をかばい、ひとり法廷で裁かれることになった。
21《 でっち上げられた醜聞 》
連合軍に連敗を重ね、革命が頓挫しかねなくなったフランスは、さらなる恐怖政治で難局を乗り切ろうとした。アントワネットについても、彼女を早く死刑台に送れ、という声が日毎に高まっていたが、そのためのはっきりした罪状がなかった。彼女が、友人や協力者たちを危険から遠ざけるために、メモなどの証拠となりそうなあらゆる物を、その都度、焼き捨てていたからである。
この状況を苦々しく感じていた、狂信的革命家エベールの元に、ルイ王子の養育係となった靴屋のシモンから1通の訴状が届いた。
王子の母であるアントワネットと叔母エリザベトが、王子に性的虐待を加えていた、というのだ。にわかには信じがたい話だったが、王子もこれを事実であると証言した。
現在では、この罪状がまったくのでっち上げで、当時8歳だった王子が、シモンから日常的に虐待を受けていたことも明らかにされている。しかし、アントワネットへの偏見で凝り固まったエベールら審問官は、疑問を抱くことなく調書を仕上げた。
22《 裁かれる王妃 》
アントワネットは、何週間も隔離されひとりきりで過ごす間に、きらびやかなヴェルサイユの広間では感じたこともなかったことだが、自らの名前に責任を持つということを理解した。裁判長に対し「オーストリア・ロートリンゲン家のマリー・アントワネット、38歳、フランス国王の未亡人です」と名のり、検事の追求には、一瞬たりとも冷静さを失わず、細心、賢明に対応した。
初日の15時間で、アントワネットの犯罪は何ひとつ立証されなかった。終了間際に業をにやしたエベールが、息子への性的虐待の件を持ち出すと、意に反して法廷中が彼の敵となった。彼の告発を信じる者はなく、母や女性全体に対する侮辱と受け取られたのだ。この件が引き金となって、彼も断頭台に送られることになる。
2日目の審理が12時間をかけて終了すると、弁護士は感服して「マダム、あなたはすばらしい」と語った。しかし、陪審員の裁定は全員一致で有罪だった。彼らは、アントワネットの首を差し出さなければ、自分たちの首を差し出すしかないことを知っていたのだ。
処刑の日、荷馬車に乗せられたアントワネットは、罵声を浴びせられても表情を変えず、まっすぐ前を見つめていた。画家のルイ・ダヴィッドは、誇り高く、自信に満ちた女性の姿をスケッチに残している。彼女は誰の助けも借りず、断頭台の階段を登り、静かに生涯を閉じた。
23《 フェルゼンの最後 》
アントワネットが死の直前に書いた手紙はすべて、職員の一人によって盗み出され、誰も受けとることができなかった。フェルゼンもその一人である。彼は、アントワネットの処刑を新聞で目にしたとたん、心を打ち砕かれた。
王家がパリからの脱出を試みた6月20日に、なぜ最後まで見届けなかったのか、なぜ彼女のために死ななかったのかと、自分自身を責めた。さらに、神を恨み、彼女を処刑した平民たちを憎むようになった。
アントワネットの死後、フェルゼンは民衆を恨み、民衆も彼を憎んだ。厳格で情け容赦のない男は、母国スウェーデンで王に次ぐ地位についたが、彼女の死から17年後、暴徒に取り囲まれ撲殺された。奇しくもそれは、かつて彼が死を望んだ6月20日だった。
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