2021年2月14日日曜日

フランス革命①[マリー・アントワネット(前編)」

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 マリー・アントワネットは、18世紀フランスの王妃。贅沢なくらしと奔放なふるまいが民衆の怒りを買い、フランス王政が幕を下ろす原因になったといわれる人物。彼女の生涯を、いくつかのエピソードを通じてたどってみた。

オーストリアの作家、シュテファン・ツヴァイクの「マリー・アントワネット」上・下巻(中野京子 訳)角川文庫を参考にした。

①《 政略結婚 》

 オーストリアを支配するハプスブルク家と、フランスのブルボン家は、互いに王家の名門として、何世紀にもわたって反目しあってきたが、近年の他国の台頭を見て、互いに手を結ぶことにした。

 マリー・アントワネットが、オーストラリアからフランスへ嫁入りすることになったのは、まだ14歳のときだった。婚礼の日、白い衣装を着た何百人もの子どもたちが、花をまきながら行列を先導した。広場の噴水からはワインが流れ、肉やパンが市民に配られた。オーストリアから来た金髪の少女は、フランス中から歓迎された。


②《 ヴェルサイユ・デビュー 》

 ヴェルサイユ宮殿は、パリから離れた、馬車で2時間の郊外にある。召使いだけでも、三千~四千人がおり、当時のヨーロッパでもっとも洗練され、高い文化度を誇ると言われていた。

 その中にあって、アントワネットは、王族としての気品を生まれながらに備えており、優美な所作が、宮廷人たちを魅了した。

 しかし、彼女自身は早朝から夜中まで続く作法、作法にうんざりしていた。自由気ままな生粋のオーストリア女性らしく、もったいぶった偉そうな態度をとり続けることに耐えられなかったのだ。勉強時間になっても、「マダム・エチケット」とあだ名をつけた厳しい女官から、逃げ出そうとしていた。この子には、ほんとうの子ども時代が、あと数年与えられるべきだった。


③《 デュ・バリー伯爵夫人 》

 宮廷の社交界では、王の年老いた三人の娘たちと王の愛妾であるデュ・バリー夫人とが対立していた。三人は、権勢をふるう夫人に、アントワネットを使って恥をかかせようと考えた。

 正直で素直なアントワネットは、老嬢たちから吹き込まれた夫人の悪口を真に受け、真正面から対決する。王を激怒させる事態となっても強情をはり続けたが、結局、アントワネットが屈服し夫人が勝利することで決着した。

 この事件で、善良で軽率なだけと思われていた娘が、内に巌のような意志を秘めていることが明らかになった。


④《 パリの虜 》

 結婚から3年目に、アントワネットは初めてパリを訪れた。宮廷馬車がゆっくり進むと、花の都のいたる所で熱狂的な歓迎を受け、初めて、自分の地位の栄光と偉大さを実感した。

 こうして、他国で萎縮していた少女の心に、人々の歓呼を当然のものとして受け取る自負心が芽生えた。しかし、高貴な地位に伴う責任の重さには気づかなかった。

 この日いらい、パリの魅力に取り憑かれた彼女は、ひんぱんに訪れては昼夜を問わず遊びほうけるようになった。

 その原因として、様々なことが考えられている。陽気さも自由もない宮廷様式によるストレス。優柔不断な夫が、手術を受け入れるまで、7年も通常の夫婦としての交わりがなかった結婚生活など。心に生じた空洞を、周りからの刺激と興奮によって埋めるようになったのかも知れない。


⑤《 青年貴族フェルゼン 》

 スウェーデンの青年貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルゼンは18才。洗練された会話術やマナーを学ぶために、パリに留学していた。アントワネットとは、仮面舞踏会で出会い、互いに淡い恋心を抱くようになった。

 彼が帰国して、二人の関係は中断されたが、アントワネットが王妃となった4年後に再開する。隠し事のできない彼女は、出会う度に顔を赤くしたり、取り乱したりして、周囲から好奇の目を向けられてしまう。

 王妃がスキャンダルにまみれるのを防ぐために、彼は軍隊に志願してアメリカへ渡る。そのまま、王妃の前から姿を消すが、やがて革命が激しさを増すとかけつけ、彼女を窮地から救出するために命がけのはたらきをする。


⑥《 無邪気な統治者たち 》

 プロイセンのフリードリッヒ大王は、宿敵オーストリアの娘がフランス王妃になることを非常に警戒した。最強国フランスの王妃には、ヨーロッパを支配するだけの力があると考えたからだ。


 しかし、アントワネットにそんな気は毛頭なかった。彼女にとって、王妃とは、宮廷内の作法を完璧にこなし、ファッションリーダーで、社交界のトップにいる者のことだった。

王が狩りの疲れで眠ってしまうと、宮殿を抜け出し、明け方近くまで仮面舞踏会、賭博場、いかがわしい社交場などをうろついていた。

 王もまた、気立てはいいが趣味の錠前づくりと狩りに気をとられがちで、政治に関しては無頓着だった。


⑦《 トリアノン離宮 》

 夏の離宮トリアノンは、王妃がお気に入りのお仲間たちと楽しく過ごすための場所であったが、調度品や改築に際限なくお金を注ぎ込んだ場所としても知られている。

 王妃は、ロココ調の洗練された繊細さと優美さを好み、それは、享楽文化の極みともいわれる様式だった。「王妃の村里」と呼ばれた庭園は、数平方キロメートルの中に、池、小川、田舎の家並みなどが配置され、さらには役者が演じる農夫や草刈人、家畜などが添えられた。本物らしく見えても、やはりそれらもロココ調で、良い香りのする羊を牧場へ連れてゆくのには青いリボンが使われていた。

 演劇ごっこや愉快なカーニバル、あるいは賭博を楽しみながら、彼女は一年中そこに入り浸ったが、ヴェルサイユには、数千人に及ぶ貴族や護衛兵、使用人たちが取り残されており、控えの間で終日仕事のないまま王妃への不満をつのらせていた。


⑧《 ポリニャック夫人 》

 アントワネットは、トリアノンでのお仲間たちを、単なる遊び相手として割り切り、尊敬も信頼もしていなかった。しかし、ある年の宮廷舞踏会で、ジュール・ド・ポリニャック伯爵夫人に出会い「長いあいだ探し求めていた、理想の女友だちに違いない」と、直感した。

 美しく淑やか(しとやか)なポリニャック夫人は、たちまちアントワネットの心をつかみ、絶大な信頼を得た。しかし、夫人の一族は借金まみれの貧乏貴族で、機会さえあればしがみつき利用し尽くそうと、いつも獲物を狙っていたのだ。

 王妃の力添えで、彼らの借金はただちに肩代わりされ、ほんの数年のうちに領地と地位や官職など、莫大な金と名誉が動かされた。一方、不当な情実人事と国政への介入を憎む宮廷人は、数を増し結束を強めつつあった。


⑨《 人気を失う王妃 》

 結婚7年目にして、王家に待望の赤ん坊が生まれた。しきたりに従って、王族や高位高官が分娩室に詰めかけて見守る中、第一子シャルロットが誕生し、4年後にはルイ・ジョセフ王子が誕生した。国中が喜びに包まれワイン、食べ物が国民に提供された。この大祝賀会の頃がアントワネットの絶頂期だった。

 王位継承者の誕生を喜ばない者もいた。王冠から遠ざかることになった王弟たちと、自分たちをないがしろにして我が物顔に振る舞うアントワネットを妬む3人の老嬢たちが中心となって、王妃の浪費や不倫の噂など、あること無いことが国中に広められた。特に、王妃が色情狂で、王子は私生児ということが、強調された。

 王位継承に関わる者たちだけでなく、宮廷に関わりのない作家や詩人たちも、おいしいビジネスとして、このようなスキャンダルを書き散らした。

 一方、宮殿の外では、ルソーの著作から自分たちの権利を学んだ者たちが、他国の民主制や自由平等の理念に目を向け始めていた。


⑩《 首飾り事件 》

 これは、詐欺師夫妻とその一味が枢機卿をカモに、非常に高価なダイヤのネックレスをせしめた、という事件である。

 詐欺師のラ・モット夫人は、見栄っ張りなロアン枢機卿に目をつけ、偽手紙や王妃の扮装をした女を使って信用させ、「王妃の頼み」といっては、何度か大金を巻き上げた。さらに、非常に高価なダイヤのネックレスを、王妃の代理として購入させることにも成功した。

 王妃に頼られていると思い込んだ彼は、有頂天になりネックレスが王妃の首を飾るのを楽しみにしていたが、実際には国外に持ち出され、ばらばらにして売り払われていた。

 半年後の、第一回支払日になって、これが詐欺事件であることが発覚した。請求書を見せられたアントワネットは、枢機卿が自分を陥れるために仕組んだ罠と勘違いし、彼を逮捕し裁判にかけることを命令した。

 王妃の起こした裁判は、一大センセーションをまき起こした。判決は、枢機卿が無罪、主犯のラ・モット夫人は終身刑と、おおむね妥当なものと思われたが、市民たちの反応は予想外のものだった。

 枢機卿の無罪が伝えられると、パリ中に大きな歓声が上がり、数万の群衆による勝利の行進が行われた。さらには、王妃こそが詐欺師で、枢機卿と夫人は王妃をかばうために罪をかぶったのだ、と考える者たちも少なからずいた。

 この世論に便乗した有力貴族が、ラ・モット夫人の脱獄を手引きすると、彼女はイギリスへ逃亡した。そこから、王妃に関する下品な暴露本を多数出版すると、夫人は再び大金を手にし、アントワネットには救い難い暴君のイメージが定着した。


11《 バスチーユ襲撃 》

 首飾り事件の裁判によって民衆は、アクセサリーごときに大金を惜しげもなくつぎ込む、宮廷人の実態を知った。その象徴としてアントワネットが、民衆の憎しみを一身に受けることになった。彼女こそが民衆の敵で、王はあやつられているだけだと考えられた。

 民衆の敵意を目の当たりにして、初めてアントワネットは、地位に伴う責任の大きさを理解することができた。生活費や宮廷費を削減し、トリアノンの友人やポリニャック一族からも離れた。しかし、それは遅すぎたと言える。

 その場しのぎの経済政策は、インフレと貧富の差の拡大を招き、民衆の不満は爆発寸前となった。打つ手を無くした王宮が、僧侶と貴族に加え平民身分からも代表を招集し、二百年ぶりに「三部会」を開催すると、特権階級である僧侶や貴族の代表と平民代表の間で会議は紛糾した。

 1789年の7月、あらゆる特権の廃止を求めて、2万人の群衆が行進に参加した。政治犯の収監施設であるバスティーユ牢獄や兵器庫が襲撃され、暴徒は守備隊長の首を槍の先に掲げて力を誇示した。

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