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現在のドイツ連邦共和国が神聖ローマ帝国だった17世紀頃、「聖餐城(せいさんじょう)には、叡智を持つ青銅の首が隠されている」という伝説があった。錬金術や占星術がまだ大きな影響力をもっていたこの時代、帝国はカトリックとプロテスタントの対立に周辺国が介入し、果ての見えない戦乱の中にあった。
「聖餐城(せいさんじょう)」皆川博子 著、光文社は、伝説の謎を解き、叡智を得たいと考えるユダヤ人の少年イシュアと、傭兵(ようへい)として身を立てようとする少年アディを中心に「30年戦争」による惨禍を描いた小説。そのあらすじを、5回に分けて紹介する。
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アディは、小柄だが身のこなしの素早い少年。14・5歳に見えるが、正確なところは本人にも分からない。道に倒れた馬の腹から、首だけを外に出して泣いていたそうだ。拾われてからはずっと、輜重隊(しちょうたい)として旅を続けている。
輜重隊とは、戦場から戦場へ軍隊と共に移動し、兵隊相手に商売をする者たちのことで、育ての親であるザーラの荷車にも酒や燻製肉、古着・古靴など、さまざまな商品が積まれていた。輜重隊には、従軍娼婦や占い師、墓掘り人夫や兵士の家族などもいて、兵士の倍近い人数がいつもひしめき合っていた。
軍隊が村を占領すると、アディはこっそりと忍び込み、売り物になりそうな物を探す。掠奪と殺戮(さつりく)は、兵士だけに認められた特権で、彼らに見つかれば、農民たちと同じように殺される危険があった。勝ちいくさの後の兵士たちは凶暴で、これまでも、目をそむけたくなる光景に何度も出くわした。アディがしゃべれなくなったのは、子どもたちの舌を切り取っている現場を目にしたからで、しゃべろうとすると舌がこわばるようになってしまった。
納屋の奥を漁っているとき、手足を縛られ、さるぐつわをされた子どもを見つけた。上等な服を着ているので、身代金を目当てに、誰かが捕えたに違いなかった。連れ出してよく見ると、同じ歳か1・2歳若いだけなのが分かった。幼く感じたのは背骨が曲がって瘤(こぶ)のようになり、背丈を小さくしているからだった。
少年は、使用人に命令するような口調で「縄をほどけ」と言った。さらに、「どっちの軍隊だ。皇帝側かボヘミア王側か」と聞いたが、アディが黙っていると「カトリック側か、プロテスタント側か」と聞き直した。
渇きと空腹で意識を失ないそうな少年に、肉を差し出しながら「食えよ」と言ったとき、しゃべれるようになっていることに気づいた。「こいつが呪いを解いてくれたのか?何か魔力を持っているのだろうか…」といぶかしむアディに、少年は「私をプラハまで護衛しろ。賃金は十分に払う」と言った。
少年の名はイシュア、父はユダヤ人の豪商で金融業も営んでいる。各国の王に資金を融通する見返りに、特権を得ては事業を拡大してきた。父からの密書を、プラハに住む兄へ届ける旅の途中だった。いつも、兵士になることを夢見ていたアディは、良い隊長を紹介してもらうことを条件に、イシュアの旅に同行することを承知した。
プラハは、新教(プロテスタント)が盛んなボヘミア王国の首都。ここの貴族たちが、旧教(カトリック)のハプスブルグ家を嫌い、プファルツ侯を新王として迎えた。そのため、入城を拒絶されたハプスブルク家のフェルディナントは、カトリック連盟の諸侯とともに新王の退去を求め宣戦を布告していた。
ハプスブルグ家は、神聖ドイツ帝国皇帝の家系である。それにもかかわらず、フェルディナントが入城を阻まれたのは、当時のドイツでは皇帝が国全体の統治者ではなくなっていたからだ。各地域に「諸侯」と呼ばれる領主がおり、彼らがそれぞれの領地を支配していた。「皇帝」は、有力な諸侯の投票で選ばれる仕組みだった。
イシュアの兄、シムションとバアルはプラハ城の経理を担当している。ある日、シムションが宰相アンハルトに呼び出され、軍資金の提供と「聖餐城」の秘密を明かすように求められた。即答できずにいると、地下牢のさらに下にある密獄に連れて行かれた。そこは、まったく光のささない巨大な穴ぐらのような牢獄だった。過去の囚人たちの骨が散乱している牢獄の底で、すすり泣いているのは弟のイシュアだった。
イシュアが追手に気づいたのは、出発してから2日目だった。不自由な体では逃げきれないと判断して、自分が囮(おとり)となり密書はアディに託すことにした。出発前に、父から「捕まっても、身代金を払えば釈放されるから心配ない」と言われていたので、恐怖心はなかった。
一方、アディは、楽士の一団に紛れ込むことで市壁の門番にも咎(とが)められずに、兄たちの屋敷までたどり着くことができた。屋敷のようすを見て、身代金に困ることはなさそうだと安心したが、予想に反して、イシュアの身代金が払われることはなかった。
密書は、隠しインキで書かれている。加熱したり薬品にかざしたりすることで文字が浮き出る。「中立を保っていたバイエルン大公が皇帝側についた」と記されているのを見て、シムションは「宗教戦争の勝敗は決っした」と思った。勝ち目のなくなったボヘミア王に、身代金の名目でも資金を渡すことはできない。戦争が終わったとき、敵方に協力していたことを理由に、ユダヤ人が財産を奪われたり追放されたりすることはよくあることだった。
シムションやイシュアの父ヤーコプ・コーヘンは、皇帝側の小貴族ヴァレンシュタイン侯に肩入れすることを決めた。彼の金銭感覚や領地の管理能力に将来性を感じたのだ。名高い天文学者で占星術師のケプラーも、彼の強運を保証していた。
父の意向を受けて、シムションはヴァレンシュタイン侯に資金面での援助を申し出た。このとき、会見を仲介したローゼンミュラー家のフロリアン中尉が、馬の扱いに慣れているアディに目を留め、騎馬隊への入営を許した。
ローゼンミュラー隊では、兵士による掠奪を禁じている。マスケット銃を用いた最新式の戦法には、訓練で培った正確な操作と規律が欠かせない。そこで、自由気ままになりがちな掠奪を禁止し、代わりに十分な額の給料を支給して隊を統率していた。
皇帝軍が、リンツ市を包囲したとき、ローゼンミュラー隊も攻撃に加わった。市が降伏し兵士による掠奪がはじまると、アディらはハンス伍長とともにケプラー家の護衛を命じられた。シムションがケプラーとは旧知の仲で、家族や観測機材・蔵書などを掠奪から守るよう頼んだのだ。以前からシムションは、攻撃の近い事を伝え避難を進めていたが、ケプラーは「魔女の嫌疑をかけられて入牢中の、母を残したまま逃げることはできない」と言って、動こうとしなかった。
興奮した兵士の一団がケプラー家にも押し寄せ、中に押し入ろうとした。命令を受けたアディが先頭の兵士に発砲すると、殺気だち騒然となったが、かけつけたフロリアン隊長のおかげで事なきを得た。
しかし、その翌日「兵士集会による裁判」が開かれ、怪我をさせたアディと発砲を命じたハンスに「槍刑」が言い渡された。200名ほどの兵士が長槍を構えて二列に並んだその間を走り抜けないといけない。その距離は150mのほどで、突き出される槍を避けながら走り切ることは不可能だった。
アディには、風が冷たくなったように感じられた。そこに、「槍刑は、私がかわって受ける」という声がして、フロリアン隊長が現れた。さらに、後ろからケプラーの娘イレーネも駆けてきて、息をきらしながらフロリアンに何事かを耳打ちした。
アディが「やめてください隊長、刑は俺たちが…」と譲らずにいると、判事役の兵士が「早くしろ、内輪もめのふりで時を稼ぐつもりか」と怒鳴った。「私にまかせておけ」と言うフロリアンの腕を振りほどいて、アディが走り出すと「まて、もう少し待て」という声が後ろから聞こえた。飛び越えたり転がったりして3本目の槍を避けたとき、大粒の雨と一緒に紫雷が空から降り、衝撃で地面に叩きつけられた。
槍を直撃された兵士は絶命したが、アディは気を失っただけですんだ。目覚めたとき、自分の中の不浄なものが焼き尽くされ、無垢で清浄なものに生まれかわった気がした。雲の動きから「落雷がある」と予測した父ケプラーの言葉を伝えるために、イレーネが駆けつけたと聞き、アディはケプラーを雷雲を呼ぶことのできる魔人だと思った。傭兵たちは「神の怒りに触れた」と言って怖れ、裁判は中止になった。
フロリアン隊長とイレーネの婚約が成立し、祝宴が催された。アディが、飲み過ぎたケプラーを介抱しながら、「あまっこ(娘っこ)と別れるのが、淋しいのか」とたずねると、「娘っ子ではなく、お嬢さんというのだ」と諭しながら、薄い聖書の絵本をくれた。アディは、生まれてはじめて自分の本を手に入れた。
その2日後、ローゼンミュラー隊の属する、ティリー軍はボヘミアに向けて出発した。イレーネも軍旅に加わり、アディはその護衛を命じられた。一方、プラハに戻ったシムションは、家族を避難させ人影の消えた邸内で、父の書庫から「小人の製造法」を持ち出していた。小人とはホムンクルスとも呼ばれる人造人間のことである。
父は、錬金術師に依頼して死者を復活させようとしていた。完全には再現できなかったが、そうして誕生したのがイシュアだと語っていた。それは、事実だろうか、錬金術師にだまされたのではないのか。それが気にかかりだしたのは、密獄にイシュアが囚われたままになっているからだった。人間ではなくホムンクルスであるなら、心の痛みが軽くなる気がしていた。
宰相アンハルトの要求した身代金の期限が過ぎて、2ヶ月がたつと。今度は、シムション自身が牢に入れられた。ただし、密獄とは異なり、牢内には高窓からの光があった。わけのわからない数式や図が、壁一面に書き散らされており、ほこりの積もった十数冊の厚い本と大量の書きつけも残されていた。シムションは、ここが先々代の皇帝ルドルフ2世の庶子ドン・ジュリオが軟禁されていた部屋であることに気づいた。彼は、青銅の首の機巧を調べるために、何人もの首を切断した狂人と言われている。
青銅の首とは、700年前の法王シルヴェステル二世が作らせた、機械仕掛けの首である。紀元前数百年あるいは数千年の昔、東方に想像もできないほど発達した文明が存在した。その叡智が封印された後、9人の賢者にだけ伝えられ、シルヴェステルはその中のひとりだった。首にはどんな問いにも的確な答えを出す能力があったらしい。
ドン・ジュリオの父、ルドルフ二世が、旅のサラセン人から青銅の首を買い上げた。確かに、質問に対してきちんと答えていたのだが、サラセン人が大金とともに去ってからは、何もしゃべらなくなった。騙されたのだろうか、ドン・ジュリオは首を分解し、人間の首とくらべながら、作り方を研究したと伝えられている。
シムションはドイツ語の他にも、幼いときから古代イスラエルのヘブライ語を学んでいた。ユダヤ人は、学問や知識にも財貨と同じくらいの価値を認めており、医術なども身につけるべき教養の一つと考えられていた。そのため、机の上のカバラの書も、ある程度理解することができた。壁や紙に残された書きつけには、ノタリコンと呼ばれる暗号が多く使われていたが少しずつ読み解き、不明なものは書き写しておくことにした。
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