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1608年に、オランダの眼鏡職人ハンスの発明した望遠鏡を、ガリレオはすぐさま改良し、飛躍的に性能を向上させた。商品化し、軍人や海運商から喜ばれていたが、彼自身はそれを天体観測に活用し、1610年にはすでに、古代からの定説をくつがえす発見をいくつもしていた。
木星とガリレオ衛星 |
「天体は、完全無欠な球」と言われてきたが、月面には隆起や刻まれた谷があり、太陽には黒いシミ(黒点)が見られた。また、木星を回る4つの衛星を発見したことは、すべての天体が地球のまわりを回っているわけではない、つまり、地球が宇宙の中心ではないことを示していると言えた。
コペルニクスは、金星の満ち欠けを観察できれば、回転の中心が太陽なのか地球なのかを明らかにできると考えていた。これにも、ガリレオが観測によって決着をつけたのだが、それでもまだ「重力のはたらき」が理解されていないために、太陽中心説に納得しない学者の方が多かった。
ガリレオの望遠鏡 |
また、「衛星は肉眼では見えない。何の影響も及ぼすことがないので、存在しない」「私は、信念に基づいて、望遠鏡はのぞかない」など、頑固としか言えない主張をする人たちもいた。
カトリック教会の見解は「太陽中心モデルは、精度が高く便利だが、現実の世界を表してはいない」というもので、1616年になると、太陽中心の考えを持つだけで異端を宣告されるようになり、コペルニクスの「天球の回転について」は禁書となった。
1618年、ドイツ(神聖ローマ帝国)でのプロテスタントとカトリックの対立が発端となって30年戦争がはじまった。その14年後、ガリレオが「天文対話」を出版すると、緊迫した宗教的・政治的な情勢が災いして、宗教裁判所による呼び出しを受けた。立ち会った10人の枢機卿のうち3人が署名を拒んだものの、有罪が確定し「天文対話」は禁書とされた。ガリレオは、誤りを認め説を撤回させられた。ひざまづいた姿勢から、判決を受け立ち上がる際に「それでも地球は動く」とつぶやいたと言われており、「教会が何といおうと、宇宙はそれ自身の不変な法則で運行し、地球は動き続ける」という気持ちの表れだったと考えられている。
69才で別荘に軟禁されてからも、失明する74才まで観測を続け、77才で息を引き取った。彼の死から1年後、アイザック・ニュートンが誕生し、やがて太陽中心説の懸案事項だった重力の問題を解決した。また、性能の向上した望遠鏡によっても、太陽中心説の証拠が次々と見つかるようになった。
宗教と科学の間にも相互尊重の気運が芽生え、天文学の関心は、次の疑問である「宇宙は、どのように・いつ始まったのか」に移っていった。
「宇宙創生」サイモン・シン著 青木薫訳 新潮社を参考にしています。
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