2022年9月27日火曜日

天文学こと始め③「地動説の弱点」

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《中世ヨーロッパ》

 ヨーロッパの学者たちに、プトレマイオスの著作が再発見されたのは11世紀頃で、それから後の数百年間は、古代人の叡智に圧倒されるばかりだった。しかし、14世紀の頃になると、司教や枢機卿の中にもプトレマイオスの天動説に不満を抱く者が現れはじめた。

 天体の運行を正確に再現するために、導円や周転円だけでなく離心円やエカントまでが必要となった宇宙の構造が、複雑すぎて見苦しいものに思われたのだ。


 一方、ポーランドのミコワイ(ニコラウス)・コペルニクスが、1514年頃に提案した太陽中心の宇宙は、神の作品にふさわしいシンプルさを備えていた。

 太陽を中心に、その近くを地球と月と5つの惑星が回り、それらから遠く離れたところで星座の星々が輝く。そう考えると、「惑星の逆行現象」と呼ばれる変則的な動きや、星座に視差が起きない問題も無理なく説明できた。


 彼はこれを20ページの論文にして発表したが、周囲からの反響は無に等しかった。発行部数が少なかったことと、これまでと同様のとるに足らない考えと思われたのだった。それでも、コペルニクスはひるむことなく、この後も数学的な内容をつけ加える等、30年をかけて200ページの原稿を書き上げた。

 宗教裁判所からの異端宣告を怖れて、晩年まで発表をためらっていたが、彼を信奉する若いドイツ人学者レティクスの、献身的な支援と励ましを得て、ようやく出版を決意した。しかし、「天球の回転について」が完成した1543年、コペルニクスは病床にあり、手に取ることができたのは死の直前だった。


 この本には、2つの謎がある。一番の功労者であるはずのレティクスの名が、謝辞から外されていること。序文で、コペルニクスの原稿とは無関係に「この太陽中心のモデルは、宇宙の現実の姿とは無関係で、単なる計算の便利さを求めたものである」と宣言していることである。

 出版には複数の人物が関わったので、誰の仕業かは不明だが、宗教上の面倒を避けるためだったと考えられている。この57年後に、コペルニクスを支持して本を出版した、イタリアの哲学者ブルーノは、異端を宣告され火炙りの刑に処せられた。さらに、その16年後には「太陽中心の宇宙観」を持つこと自体が異端とされ「天球の回転について」も禁書となった。


 数々の危険を承知で公刊されたにもかかわらず、「天球の回転について」は、ごく少数の天文学者に読まれただけで、ほとんど相手にされなかった。その理由として、地動説が荒唐無稽の説と受け取られたこと以外にも、プトレマイオスの「地球中心説」に精度の点で劣っていたことがあげられる。

 コペルニクスの提示した計算方法には、実際の天体との間に、見過ごせないほどの誤差がまだ残されていた。その弱点を克服し、太陽中心の宇宙が人々に受け入れられるためには、あと数百年の年月が必要だった。


「宇宙創生」サイモン・シン著 青木薫訳 新潮社を参考にしています。


    


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