2023年2月17日金曜日

「聖餐城」②  ー 神聖ローマ帝国と30年戦争 ー

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 「聖餐城(せいさんじょう)」皆川博子 著、光文社は、17世紀の神聖ローマ帝国(現在のドイツ連邦共和国)を舞台に、伝説の謎に挑むユダヤ人の少年と傭兵(ようへい)として身を立てようとする少年の友情を中心に、戦争の惨禍を描いた小説。そのあらすじを紹介している。今回は、その2回目

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 ティリー軍は、ボヘミヤとの国境地帯にある山地にさしかかったところで、歩みを止めた。領主と交渉を行い、抵抗せずに軍を通過させること、焼き討ちをしないかわりに軍税を支払うことなどを取り決めるのだ。ささやかな休憩の時間を、アディはイレーネや友人の娼婦ヤーナといっしょに過ごしたが、兵士たちの多くは農家へ掠奪に出かけた。

 傭兵たちの中で、ローゼンミュラー隊だけは掠奪を禁じられている。しかし、その禁を犯した者がおり、30数名が解雇された。アディが新兵のときから世話になり、槍刑をいっしょに体験したハンス伍長もその中に含まれていた。

 行軍が再開されて数日後、強風にあおられた頭巾がアディの前に飛んできた。追いかけてきた娘は、なぜか「地面に落として」と言った。アディが従うと「気に病むことはないよ、見た者はいないから無かったことになる」と言って、拾い上げ走り戻った。初めて見る娘だったが、その顔がアディの心に刻みこまれた。そして、最近雇われた処刑人の娘だと思い当たった。

 そのとき、銃声が鳴り響いた。駆けつけると、イレーネの馬車が横転し、護衛兵の死体には脅迫状がナイフで刺しとめられていた。盗賊団が身代金を目的に、イレーネを誘拐したことがわかった。この時代、病気や怪我などで解雇された傭兵たちが集まって、盗賊をはたらくことはよくあることだった。脅迫状による呼び出しに応じて、フロリアン隊長は一人で交渉に向かった。心配したアディは、密かに後をつけ物陰から犯人の一人を射殺したが、実は制圧のための手はずはととのっていて、後続の騎兵が急襲し盗賊団を粉砕した。

 盗賊のほとんどが殺されたり逃げたりしたが、2人だけが捕えられた。どちらも先日追放されたばかりの傭兵仲間で、そのひとりはハンス伍長だった。彼は無実を訴えたが認められず、二人とも公開処刑を受けることになった。鉄の仮面を頭からスッポリかぶった刑吏(けいり)と呼ばれる死刑執行人が、二人の首に輪をかけ踏み台を外した。宙吊りになるはずだったが、綱が切れ、二人は失神するだけですんだ。死刑が執行されたにもかかわらず死ななかった者は、神の意思を尊重して釈放される習わしだった。ハンス伍長も、奇跡の生還者として隊への復帰を許された。

 森の中に小さな祠(ほこら)を見つけたアディは、こっそりとひざまづき、聖母の像に尋ねた。「縄に切れ目を入れて、伍長が助かるようにしたのは、神様にさからったことになりますか」「刑吏やその縁者と言葉をかわしたり持ち物に触れたりすると、穢(けが)れてしまうというのは本当でしょうか。それとも、誰も見てなかったから無かったことになるでしょうか」「マリア様、ばちが当たらねえように、神様にとりなして下さい」

 プロテスタントの旗手マルチン・ルターは「刑吏の仕事は、神の御技を代理している。罪人の首を断つ手は、人の手ではなく神の手である」と説いたが、カトリック世界では、市民が処刑人と接触すると、名誉を失い賎民に落とされるのが通例で、身分の違いは神の定めた秩序であるから、乱してはならない、というのが常識だった。そのため、刑吏の息子は刑吏にしかなれず、娘は刑吏仲間としか結婚できなかった。

 人の気配を感じて、アディが目を開けると小さな紙包みが落ちていた。誰かが投げてよこしたにちがいなかった。未使用の弾丸が2発包まれており、紙には文字が書かれていた。文字は読めなかったが、後に「魔除け」であるとフロリアンから教えられた。

  皇帝軍とボヘミア軍は、白山の平原をはさんで対峙した。兵力は、それぞれ1万4千。ボヘミアは、首都プラハへの進軍を阻止するため、ここに全軍を集結させていた。一方、皇帝軍は反乱軍を殲滅(せんめつ)する絶好の機会と捕らえていた。

 アディはお守りの銃弾を、一発は自分が持ち、もう一発は愛馬の首にかけて戦場に臨んだ。実際には2時間の戦闘だったが、アディには一晩中戦っていたように感じられた。身体中に傷を受けたが、致命傷はなかった。この戦いでボヘミア軍は壊滅した。王が敗戦を知ったのは、イギリス使節団と会食をしている最中だった。

 駆け込んできた宰相アンハルトが切迫した表情で戦況を伝え、脱出を促した。王や重臣らが軍議にかかる中、アンハルトはひとり牢からシムションを連れ出すと、自分の屋敷へ向かった。戦闘で負傷した息子のために、医術の心得のある者を探していたのだ。市内の医師は、皇帝軍を怖れて脱出し誰もいなくなっていた。


 治療が終わると、シムションは解放され帰宅を許された。久しぶりに戻った屋敷では、弟のバアルが独断でボヘミア王への支援を続けており、貴金属や宝石の多くを売り払ってしまっていた。また、驚いたことに密獄に囚われているはずのイシュアもいた。肩まで伸びた髪は白く変わり、体は垢まみれだった。「錬金術で造られた人造人間だから脱獄できたのか」という考えが思わず頭に浮かんだ。

 イシュアは、暗黒の獄内で身代金の到着をずっと待っていたが、やがて、一族から見捨てられたに違いないと考えるようになった。脱出路を見つけようと手探りするうちに、囚人らが何百年にもわたって掘り継いできた、穴が残されいることに気づいた。牢内にいくらでもある骨を使って土を削り続けるうちに、指先は割れて固くなり爪はすり減ってそれ以上伸びなくなった。そしてようやく抜け穴を貫通させたのだ。


 翌朝、プラハは無条件降伏した。王家は馬車を連ねて、財宝や侍従らと共に脱出し、シムションの弟バアルも後を追った。一途な彼は、崇拝する美貌の王妃と共に進む道を選んだ。皇帝軍側の傭兵には、一週間の掠奪が許可され大規模な殺戮・強奪が行われる。このようなとき、まっ先に狙われるのがユダヤ人居住区だが、軍資金の提供者であるシムションの屋敷には、ローゼンミュラー隊が宿所として駐留し、被害が及ばないようにしていた。

 アディが馬の世話をしていると、隊長から解熱剤を手に入れてくるように命じられた。イレーネが具合を悪くし、高熱を出したのだ。市内中を探しまわったが、どの薬局も傭兵に荒らされた後で、何も残ってなかった。それどころか、あちこちで掠奪のようすを目にするうちに、また舌が硬直ししゃべれなくなってしまった。

 市壁の外側だが「刑吏の居住区に行けば薬をもらえる」と思いついた。17世紀初頭、罪人の処刑だけでなく拷問も仕事にしていた警吏は、人体の機能について医師に匹敵するほどの知識があり、拷問で弱らせた人間に治療も施していた。刑吏と言葉を交わしたり、持ち物に触れたりしただけで、市民としての身分を剥奪される。しかし、その危険を犯しても治療や投薬を受けるために、こっそりと刑吏の居住区を訪ねたいと考える市民は少なくなかった。

 市壁の門は、すでに閉じられていたので、アディは壁をよじ登ることにした。登ったら降りなくてはいけない。最後は指がしびれて転落した。なんとか刑吏の家までたどりついたが、しゃべれないので処方箋と金を黙って差し出した。若い男から「挨拶もできねえ奴」とののしられながら薬を受け取っていると、奥から見覚えのある娘が出てきた。彼女は、薬代の袋からコインを1枚取り出すと、市壁までの帰り道をいっしょに歩いた。コインは娘から門番の手に渡り、買収に使われた。もしやと思い、アディがお守りの銃弾を見せると、娘はうなづいて自分のしわざであることを認めた。「ユーディト」と名前も教えてくれたが、「二度とこないで」とも言って、少し開いた門のすきまにアディを押し込んだ。

 シムションの屋敷へ薬を届けたときに、イシュアと再会した。思わず走り寄り抱きしめると、「お前にまた会えてうれしいよ」と声が出て再びしゃべれるようになった。


    

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