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13世紀はじめの、神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ二世は「中世からルネッサンスへの扉を開いた」と評され、「世界の驚異」と讃えられた。彼の生涯を「フリードリッヒ二世の生涯」塩野七生 著 新潮社(上・下巻)を参考にまとめた。今回は、その後編
18才で神聖ローマ帝国皇帝となったフリードリッヒ二世は、地方領主が気ままに統治する国から、法に基づいた中央集権の国づくりを始めた。しかし、それは、神の定めた法を第一に考える法王にとって、警戒すべきことだった。 第6次十字軍で、イスラム国との友好関係を築いているさなかに、その留守をねらった法王グレゴリウス九世による、シチリア攻撃の知らせを受け、フリードリッヒは急ぎ帰国した。
《 対立の激化 》
フリードリッヒが帰還すると、シチリアに侵攻中だった法王軍の指揮官は、戦いを放棄して逃亡した。法王も、孤立無援の状態になり、1年後にやむなくフリードリッヒへの破門を解いた。しかし、次の2つは法王にとって見過ごしにできない問題だった。
1つめは、フリードリッヒがシチリアに戻ってからも、手紙のやりとりなど、イスラムとの友好関係を保ち続けたことである。当時のイスラム世界は、アラビア数字や精巧な機械じかけの時計に見られるように学芸の先進地で、彼らの交流は、死の直前まで続けられた。
もうひとつは、「メルフィ憲章」の発布である。「税は浅く広く」や「貧者には、無料で弁護士をつける」など、古代ローマ法の精神が反映されており、憲章の改定手続きから見本市の開催日にいたるまで、国政に関するありとあらゆる事柄が3巻260項目にわたって記載されている。武力でなく法による統治を確かなものにする一方で、政治と宗教の分離を押し進めるものでもあった。
これらに対する、法王の対抗策が異端裁判所の設置だった。さらに、ロンバルディア同盟に加盟している都市群も皇帝に反対の立場をとった。同盟との交渉が決裂すると、フリードリッヒは武力に訴えることを決断する。
最初の標的となったヴィチェンツァは、みせしめとして、徹底的に破壊され殺戮された。続いて、ミラノを中心とした同盟軍には、退却すると見せかけて籠城を解かせ、八千の軍勢を完璧に近いかたちで打ち破った。
《 三度目の破門 》
大敗したにもかかわらず、ミラノは屈服しなかった。総人口8万、それに周辺都市からの志願者も加えて1万3千人程度の軍勢を編成できるだけの余力を残していた。6千人の常備軍しか持たない皇帝は、周辺の王族やドイツ諸侯からの援軍を得て、連盟の都市ブレッシアを包囲した。しかし、大砲の無いこの時代に城壁を破壊する手立てはなく、戦果のないまま撤退することになった。フリードリッヒにとって初の敗戦である。
この機に乗じて、法王はフリードリッヒを3度目の破門に処した。その告発に対して、これまでと同じようにフリードリッヒは、反論を公開することで対抗した。皇帝には常時100人以上の随行者がおり、その多くは文書を筆写する書記と、それをヨーロッパ各地に届ける配達員だった。ヨーロッパの王や有力諸侯たちは、この広報活動によって、法王の本心を知ることができた。中でも彼らの警戒心を高めたのは「コンスタンティヌス大帝の寄進書」である。
およそ千年前に、当時のローマ法王が大帝コンスタンティヌス一世から、ローマ帝国の西半分つまりヨーロッパ全域を寄進されたというのだ。後に、この証文は偽物であることが証明されるのだが、まだこの時代の法王は、これを根拠にして、反抗的な王侯の領土を取り上げる権利があると主張していた。破門はその事前通告なのだ。
さらに、法王はジェノヴァとヴェネツィアの海軍を、シチリア王国に向けて出撃させた。ちょうどこの時期、ポーランドやハンガリーでは、モンゴル軍のヨーロッパ侵入が激化しており、王たちから援軍の要請も届いていた。
《 ローマへの進軍 》
フリードリッヒはこれらの難問に対して、一人で対応した訳ではない。忙しくあちこちを駆け回ってはいたが、40代の半ばに達した彼の仕事は、オーケストラの指揮者のようなもので、直接解決にあたったのは、彼のもとではたらく有能な側近や諸侯たちだった。
破門は、法王の下す処罰のうちで最も重い。当の本人だけでなく、その者に関わっただけで同じ罪人として扱われる。しかし、周辺国の王や帝国内の諸侯たちの中で、フリードリッヒへの接し方を変えた者は一人もいなかった。王侯たちの間での彼の地位が、すでに揺るぎないものになっていたからであるし、これまでの広報活動が効を奏したともいえる。法王の差し向けた海軍との戦闘も、シチリア王国の勝利で終わった。
そこで法王は、大司教や司教を招集して皇帝位の剥奪を決議させようとした。しかし、この企みも、事前に察知したフリードリッヒによって、高位の聖職者400人が船団30隻とともに捕獲され、阻止されてしまう。そして今度は、皇帝軍が報復のために進軍を始めると、「ここまでにした責任は法王にある、グレゴリウスを追い出そう」と主張するローマ市民も現れた。皇帝軍が、ローマへ13キロの地点まで迫ったときに、グレゴリウス九世が71才で死去したとの報が入った。
フリードリッヒは軍を退き、この後も彼がローマに攻め入ることはなかった。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」とイエスが言い、15世紀にマキャベリの説いた「正教分離」が、フリードリッヒの主張し続けていたことである。
《 法王の陰謀 》
法王の後任選びは難航した。2年後にようやく選出されたインノケンティウス四世も、就任直後から、フリードリッヒとの対面を避け、姿を隠した。しかし、単に身を潜めていたのではなく、さまざまな陰謀を巡らしていたことがわかる。最初に行ったのは、潜伏先のリヨンから皇位聖職者に公会議の召集をかけることだった。
いつもなら、500~800人が集まるはずの会議だったが、今回の出席者は150人足らずだった。それでも強行し、フリードリッヒに異端の判定と皇帝位の剥奪を言い渡した。公会議の名を借りた、異端裁判だったのだ。被告でありながら出廷を拒否されていたフリードリッヒは、その間、王族や諸侯に向けて、確執の生じた原因と互いの言い分を包み隠さず説明していた。
リヨン公会議の結果を、ヨーロッパの王や諸侯たちが支持するはずがなかった。フランス王のルイ九世も、法王の「シチリア国の王位を与える」という誘惑を、きっぱりと断った。「与える権利」を認めれば、「奪い返す権利」も認めることになるからだった。また、開催地のリヨンでも、異例づくめの会議を非難した当地の司教を、法王が左遷したことで市民の激しい抗議行動が起き、身の危険を感じた法王が避難する事態にもなっていた。
それでも法王は、「憎むべき異端の徒」としてフリードリッヒへの攻撃を続けた。が、反皇帝十字軍の呼びかけに応えた王侯はなく、自分が擁立したドイツ国王や神聖ローマ帝国皇帝はどちらも実権を握れないまま失脚してしまった。
法王の繰り出す様々な策謀の中で、フリードリッヒがもっとも傷つけられたのは、皇帝暗殺計画であろう。忠誠を尽くす部下の子弟に対し、フリードリッヒは、我が子同様の愛情を注ぎながら、王国を担う次の世代として、教育を授けてきた。そして、今ではそれぞれが要職を任せられるまでになっていたのだが、その中の数名が、法王から持ちかけられた皇帝暗殺の計画に加担していたのだ。事前に露見し未遂に終わったが、フリードリッヒの与えた罰は厳しかった。特に、「臣従の誓い」を破ることは騎士の「信義」に背くことであり、商人の間では契約書が交わされていても、武士の間では「二言はない」が立派に通用していた。
主犯格の2名は、早々にローマへと逃亡したが、彼らの妻子は幼児にいたるまで全員が投獄され、食事も与えられないまま放置された。また、残りの8名は、全員が焼け火箸で両目をつぶされ、そのうち6名にはさらに極形が加えられた。
この二世家臣たちの反逆について、父親たちが封建領主からしだいに官僚化していく姿を目にして、このままではいずれ先祖伝来の領地まで失ってしまう、と不安にかられた結果ではないかと、塩野氏は考察している。
裏切られ、処罰を下すフリードリッヒは、断腸の思いであったろう。しかし、そこから再起する能力の高さが、フリードリッヒの持ち味だった。処刑によって空席になった役職は、代わりの有能な人材によって直ちに補充された。ただし、今回は才知と力量を重視して封建諸侯の縁者以外からも多く抜擢した。また、血のつながりによる結束も重視し、正妻・側室あるいは愛人を問わず、すべての子に、王族や有力諸侯などしかるべき結婚相手を世話した。
《 パルマ攻略 》
アルプス山脈の南側に、ロンバルディア同盟と呼ばれる自由都市の一群があった。ミラノのように、法王の側に立ち信仰心の強さを誇る都市が多い中で、パルマは貴重な皇帝派の都市だった。法王は、ここにも扇動者を送り込み、クーデターに成功する。皇帝として、見過ごしにできないフリードリッヒは、軍によって都市を包囲し、物資の流入を断って降伏させることにした。
勝利が目前となり、フリードリッヒが目を離した隙に、前線基地の守備隊長が敵の計略にかかり、壊滅的な打撃を受けた。フリードリッヒの敗北であったが、このときも挽回力を発揮して、5ヶ月後にはパルマも含めたロンバルディア全域を制圧した。
これによって、法王もついに観念し、フリードリッヒが死を迎えるまで、亡命先のフランスに身をひそめることになった。
《 皇帝の死 》
フリードリッヒは、かつて、法王の意向に配慮して、長男をドイツの王位につけたが、元々しっくりしていなかった親子関係が悪化し、ついには我が子を廃位するという苦い経験をした。艶福家の彼は、正妻の死後も、多くの子どもを得たが、長男での失敗を繰り返さないために、そのすべてと親密な関係づくりを心がけてきた。
パルマ攻略から3年後、鷹狩りに向かっていたフリードリッヒは、急な痛みを感じそのまま病床についた。回復の見込みのないことを知ると、遺言を残し静かに死を迎えた。
神聖ローマ帝国の皇帝位とシチリア王国の統治権は、二番目の正妻の子で22才になるコンラッドが受け継いだ。しかし、ドイツの封建領主たちの反応は冷ややかだった。彼らがまっ先に感じたのは、「コンスタンティヌス大帝の寄進書」を手に領有権を主張する、法王に対する盾を失った不安感だった。
法王派に寝返る領主が相次ぐなか、コンラッドはマラリアにかかり、26才になったばかりで急死する。そこで、6才の遺児コラディンがドイツで王位につき、シチリア王国は24才のマンフレディが統治することになった。しかし、法王はそれを認めず、マンフレディを破門する。愛人の子である彼が、コラディンからシチリアの王位を奪ったというのだった。
フリードリッヒの血統根絶に執念をもやす法王は、フランス王ルイ九世にシチリア攻略をすすめた。フリードリッヒに恩義のあるルイ王は、それを断るが、王弟のシャルル・ダンジューが法王と手を組むことまでは阻止できなかった。この時期のルイ九世は、第7次十字軍に失敗して、国庫が空になるなど、弱い立場だった。
《 シチリアの晩鐘 》
フリードリッヒの死から16年が過ぎた。地中海貿易の要衝であるシチリア王国は、マンフレディ王のもとで平和と繁栄の中にあった。この年の1月に、法王から統治権を授与されたフランス王弟のシャルルが、2万5千の軍勢を率いて侵攻を始めた。これは、250年後にマキアヴェッリが「イタリア内の問題を解決するために、他国の軍事力を引き入れてきた歴代のローマ法王によって、イタリアは他国からの侵略に、長年にわたり何度も苦しめられることになる」と、嘆いた最初の例であった。一方、迎え撃つシチリア軍も2万を越えており、兵力はほぼ互角だった。
どちらも、戦場経験の乏しい王に率いられており、作戦らしい作戦はなかった。両軍が平原でぶつかり合うと、たちまち混戦となった。やがてシチリア軍が押され気味になり、起死回生を狙うマンフレディは、騎兵の先頭に立って敵中に斬り込んでいった。が、彼の姿はそのまま見えなくなった。
折り重なる兵士とともに、マンフレディの死がいも横たわっていた。破門された者は、墓に入ることができない。野ざらしにされるのが通例だが、彼に同情したフランス兵たちが、手に手に石を持って彼の上に積み墓にした。また、その2年後、フリードリッヒの孫コラディンもシャルルによって倒され、ナポリで斬首刑に処された。
コラディンの処刑を見守る群衆の中に、医師ジョバンニがいた。彼は、すぐにスペインに渡り、処刑のようすをアラゴン王国のコスタンツァ妃に伝えた。ジョバンニはフリードリッヒ帝とマンフレディ王に仕えた医師であり、王妃コスタンツァは、14才のときにアラゴン王国に嫁入りしたマンフレディの娘だった。二人は復讐の計画を練り、アラゴン王に協力を求めた。
14年後の復活祭の夜、教会の鐘が鳴りひびく中、フランスの支配に不満を募らせた住民が蜂起すると、それにスペイン海軍が呼応して、シチリア島を一夜のうちにシャルル王の手から奪い取った。この出来事は「シチリアの晩鐘」としてオペラにまとめられている。
その後、コスタンツァがシチリア島の王となり、領土の半分を失ったシャルルは、3年後に、怒りを抱いたまま世を去った。また、約20年後には、法王の力添えで強国となったフランスが法王を捕え憤死させるという、後の「アヴィニョン捕囚」につながる事件が起きた。
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