2020年11月15日日曜日

皇帝と法王の対立「フリードリッヒ二世」①

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 「中世からルネッサンスへの扉を開いた」と評され、「世界の驚異」と讃えられたフリードリッヒ二世は、13世紀はじめの神聖ローマ帝国皇帝。第6次十字軍を率いて、大きな成果をあげたにもかかわらず、3度も法王から破門された。その一番の理由は、武力でなく交渉によってイェルサレムを獲得したことにあるらしい。彼の生涯を「フリードリッヒ二世の生涯」塩野七生 著 新潮社(上・下巻)からまとめた。


《 誕生 》
 フリードリッヒは、父である神聖ローマ帝国皇帝のハインリッヒと、シチリア王の娘コンスタンツァの間に、1194年に生まれた。神聖ローマ帝国は、現在のドイツからチェコ・オーストリア、さらにはイタリアの北部まで広がっており、シチリア王は、イタリア半島の先にあるシチリア島からナポリまでの南イタリアを統治していた。そして、2つの国に南北から挟まれているローマは、法王の領有地だった。

 フリードリッヒの誕生した中世は、弱肉強食の油断のならない時代だった。旅先で産気づいた女王が、小さな町の広場に天幕を張り、そこで出産することにしたのは、見物に押し寄せた大勢の市民を、王子誕生の証人にしようと考えたからだ。
 案の定、フリードリッヒが3才の時に父帝が亡くなると、ザクセンの領主オットーが名乗りを上げ、神聖ローマ帝国皇帝を戴冠した。母は、オットーとの争いを避け、自分に継承権のあるシチリア王の位にフリードリッヒをつかせたいと考えた。そこで、ローマ法王に王子の後見人を頼んだが、その報酬は、黄金300キロとシチリアを法王の領有地として認めることだった。

《 少年王 》
 法王の後ろ盾を得て、フリードリッヒが即位すると、それを見届け、安心したかのように母コンスタンツァが病没した。4才で天蓋孤独の身となってしまったが、シチリアの中心都市パレルモでは、少年時代をのびのびと自由に過ごすことができた。
 乗馬や武術を好み、王宮を出ては市井の人々との交流を楽しんだ。パレルモは、カトリック教徒だけでなくギリシア正教やイスラム教徒など、昔からさまざまな民族が共存して暮らす都だった。その開放的な風土によって、創造性と寛容性が育まれた。
 彼が7才のとき、ある一派が、少年王を手中にして勢力を広げようと企てた。家臣でありながら王を拉致しようとする誘拐犯に対し、大声で叫びながら自分の体をかきむしることで抵抗し、みごと撃退に成功した。幼いながら、自分の意思を貫き通す子どもで、「不屈の精神旺盛にして、万事につけて御しがたし」とも評された。

 14才になったフリードリッヒは、成人した王として、後見人から離れ自立することを宣言した。しかし、当時のシチリア王国は、実権を持つ王がいないのを良いことに、地方領主が自分の所領を勝手に増やしており、王の所有する土地が少しもない状態だった。そのため、王家に金は無く、軍隊も持てないありさまだった。
 その3年後、ドイツ南部を中心とした反オットー派の諸侯から、「神聖ローマ帝国の皇帝として迎える準備ができたので、ぜひ来て欲しい」と招かれた。彼らの旗頭でありフリードリッヒにとっては叔父にあたる、フィリップ候が暗殺されてしまったのだ。
 シチリアの改革にとりかかったばかりだったが、この機を逃さず、フリードリッヒはわずか10人の手勢を率いてドイツ行きを決行した。最大の難関は、アルプス山脈の南側に広がる自治都市の一帯だった。この都市群はロンバルディア同盟と呼ばれ、ミラノを中心に昔から反皇帝で結束していた。それらの都市を迂回し、裏道を選んだり、武装集団に追われたときは馬ごと川に飛び込んだりしながら、6ヶ月をかけて、アルプス越えを果たした。

《 皇帝戴冠 》
 現皇帝のオットーは、戦(いくさ)上手で、フランス領だけでなく法王領まで脅かすようになっていた。しかし、ドイツ諸侯には高圧的で徴税に厳しいオットー帝を嫌う者が多く、シチリアから来た少年を新皇帝として歓迎する空気が広がっていった。寛容性と広い視野をもったフリードリッヒの教養や語学力が、次代のリーダーとして魅力的に映ったのだ。
 また、フランス王フィリップ二世も、フリードリッヒとの同盟を望んでいた。彼はノルマンディ地方をめぐってイングランド軍と長いあいだ争っていた。イングランドのジョン王は、獅子心王リチャード一世の弟だが、兄ほどには軍才がなく、甥であるオットー帝の助けを借りて、フランス王に対抗していた。
 ジョン王とオットー帝の連合軍は、兵力ではまさっているものの、軍隊としては寄せ集めにすぎなかった。ブーヴィーヌ平原の決戦で、フランス軍の「おびき寄せ、到着した部隊から順に撃破する」という作戦にはまり完敗した。フィリップ王が勝利したおかげで、戦闘に参加しなかったフリードリッヒも、正式に皇帝冠を手にすることができた。
 ちなみに、フリードリッヒは、同盟を結ぶ際にフィリップ王から2万マルクを贈られた。それを軍隊の創設には使わず、有力諸侯に配ったのは、神聖ローマ帝国の帝位が諸侯の投票によって選ばれるからだった。
 1220年、神聖ローマ帝国皇帝の戴冠式が行われた。神の代理人である法王から、帝冠を授けられて初めて正式な皇帝と認められる。フリードリッヒは堂々の兵力を従えてローマに入った。ミラノからの追手に苦しめられた8年前とはうってかわり、諸侯に対して、兵力の提供を命じることもできるようになったのだ。
 聖ピエトロ大聖堂で、「キリスト教会の守護者となる」「十字軍の遠征に行く」「異端者を撲滅する」の3つを誓って、セレモニーは終了した。が、その直後に「シチリア王国の統治が軌道に乗るまで」を口実に、法王から十字軍の遠征を先延ばしにする許可を取りつけていた。
 フリードリッヒはこの後も、理由をつけては遠征を延期したために、ついに破門され、その後も、不服な態度を示したとして立て続けに破門されることになる。

《 王国の改革 》
 シチリア王国で、フリードリッヒは、さっそく改革に取りかかる。地方領主が所領を、勝手気ままに統治できる封建制国家から、近代的な君主制国家への移行を目指した。まず、王朝の絶えていたこの30年ほどの間に、諸侯が不当に手に入れた土地を、本来の状態に戻すことから始めた。また、諸侯が兵力を勝手に行使することも禁じた。今後は領主であっても、力でなく法に基づいた行動が求められるようになるのだ。予想に反して、領主たちからの反発がなかったのは、人望のある有力な領主を、知事や長官に任命し改革にあたらせた、フリードリッヒの作戦が功を奏したからだった。
 また、彼の構想する中央集権国家に、欠くことのできない、法と有能な役人のために、ボローニャ大学から法学者を招いて「カプア憲章」を制定したり、ナポリ大学を創設したりした。しかし、それらが法王の不興をかうことになる。

 法王にとって、法とは、神が人間に授けるものであり、不変でその言葉通りに執行されるべきものであった。一方、フリードリッヒは、人間世界のことは人間が作った法を優先すべきで、厳密さよりも良識に沿うべき、と考えていた。
 また、大学の教育内容についても、これまでは神学や教会法が中心だったのに対し、ナポリ大学ではローマ法を主要課目にして、哲学・論理学など幅広い知識の習得を目指していた。そのため、教授陣にも聖職者がほとんど含まれていないなど、フリードリッヒの改革が進むにつれて、教会側との違いがしだいに鮮明になってきた。

 また、イスラム教徒の起こした反乱に対して、フリードリッヒの対応が寛大であったことも、法王の不信感をつのらせる結果につながった。
 シチリア島では、古代から、支配者となる民族が何度も入れ替わってきたが、勝者が敗者を一掃することなく、常に共存の道を歩んできた。そのため、学識や技能のある者は、支配される民族であっても王宮への出入りが許され、不自由のない生活が送れていた。
 その一方で、農村部では貧しい暮らしが続いており、支配者への不満も蓄積していた。ついに、それがイスラム教徒による反乱となって現れ、首謀者が処刑される事態となった。しかも、すぐには鎮静化せず、海を隔てた北アフリカのイスラム教徒とも連携するようすを見せた時に、フリードリッヒの取った処置は、反乱に加わった者や家族など2万人を、内陸のプーリアに移住させることだった。
 その地で、イスラム教徒たちは、信仰の自由を認められただけでなく、兵士として雇われたり、農地を貸与されたりして、生活の手段まで保証されていた。これは、領民の生活を向上させることで治安に必要な人員を減らし、常設の軍隊にかかる経費を減らそうとする、フリードリッヒの統治理念に基づく処置だった。

 また、軍事費を節約する一方で、海軍力については増強を図った。当時、シチリア王国は、海上防衛をイタリア北部の海洋都市国家ジェノヴァとピサに頼っていたのだ。これを自国でまかなえれば、国防だけでなく経済の面でも大きな効果が期待できた。

《 第6次十字軍 》
 再三にわたる法王の求めに応じて、フリードリッヒも重い腰を上げ、十字軍を編成した。しかし、幼少期をイスラム教徒との共生があたりまえのシチリアで過ごしたフリードリッヒは、これまでの十字軍とは異なる戦略を考えていた。獅子心王リチャードとサラディンが激しく争った時代から、すでに30年以上が過ぎ、イスラムの指導者も穏健派のアル・カミールに変わっていた。
 フリードリッヒはイスラムとの交渉を、無難な文化交流から始めた。親書を携えてやって来た使節団が驚いたのは、彼が通訳なしで会話したり、文字を読めたりすることだった。この友好的な雰囲気は、十字軍がパレスティナに入ってからの交渉でも受け継がれた。
 軍事力を背景にしながらも、戦闘を行うことなく、粘り強い交渉によって、聖都イェルサレムの割譲を認めさせた。さらに、巡礼のために往来するキリスト教徒の安全も保証されることになった。アル・カミールが、なぜこのような譲歩を行ったのかは謎であるが、イェルサレムを手放すことで十字軍襲来の根を永久に断ちたいと考えたのではないかと、塩野七生氏は分析している。

 悲願ともいえる、イェルサレムの領有化を果たしたにもかかわらず、法王からは、激しい非難のことばをあびせられた。このときの法王は、グレゴリウス九世。後に、魔女裁判で知られる「異端裁判所」を創設した人物である。彼にとって、聖地の奪還はキリスト教徒が血を流して成し遂げるべきものだった。だからこそ、その参加者には完全免罪の報酬が約束されるのだ。異教徒との話し合いによる講和など、言語道断だった。
 「法王は太陽、皇帝は月」と信じる法王は、フリードリッヒをすでに二度破門しており、今回も彼を「キリストの敵」と断じた。そして、彼が留守なのを良いことに、シチリア王国へ軍勢を差し向けた。そのため、フリードリッヒは、計画していた和平後の事業を途中で切り上げ、帰国することになった。
 彼とアル・カミールの和平協定は20年のあいだ守られ、この平和が破られたのはフランス王ルイ九世に率いられた第七次十字軍によってだった。


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