2019年6月10日月曜日

21 ローマ帝国(9)「大帝ユスティ二アヌスと皇妃テオドラ」


 「最後のローマ皇帝」 〜大帝ユスティニアヌスと皇妃テオドラ〜(野中恵子 著、作品社)は、大帝と呼ばれたユスティニアヌス1世と、その皇妃テオドラの物語。ユスティニアヌスは、貧農の出身から東ローマ帝国の皇帝にまで昇りつめ、テオドラも元々は娼婦だった。

 東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、国力の衰えを乗り切るために、ローマ帝国からの伝統であった共和制を捨て、皇帝専制国家へ生まれ変わろうとしていた。ユスティニアヌスが帝位についたのは、それがほぼ完成したといわれる、6世紀の中頃。彼は温厚な人柄であったらしいが「眠らぬ皇帝」と噂されるほど精力的に国内外の諸問題に取り組んだ。
 一方、皇妃テオドラは、「烈女」と噂されるほどに、外交や政治の表舞台でも自由奔放に振るまった。「悪女」との評価もあるが、皇帝は「神からの贈りもの」と公言するほどに、全幅の信頼を寄せていた。

《野望への道》
6世紀中頃の東ローマ帝国(赤色)と周辺の国々
 西ローマ帝国の滅亡からおよそ50年後の西暦527年。東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスでは、皇帝ユスティニアヌスの即位式がとり行われていた。この席で、新皇帝は「皇妃テオドラを共治帝とする」と宣言し、客人たちを一斉に驚かせた。

 テオドラはサーカスの熊使いの娘として生まれた。幼いとき、その熊の牙にかかって父親が命を落とすと、母親は幼い姉妹を芝居小屋に売り姿を消した。やがて、コミカルな演技と怪しげな踊りを披露するようになると、その美貌が都中の評判を呼び、たちまち売れっ子の花形女優となった。しかし、当時の芝居小屋は娼館も兼ねていたので、「女優」とはすなわち「裏町の娼婦」を指す言葉でもあった。
 美貌のテオドラには、身分を隠して客になりたがる知名士も多く、その中のひとり、キュレナイカ(リビア)の総督からは、この上ない贅沢なくらしを与えられた。しかし、それも柄の間、性への奔放さが災いして不貞をとがめられ、南方の乾いた大地の上に放り出されてしまった。

 砂埃にまみれながら体を売り、都へ戻るための旅を続けていたが、その途中のアレクサンドリアでキリスト教に出会ったことが、彼女の転機となった。堕胎に失敗し、修道院に身を寄せたときはワラにもすがる思いだったが、修道女の慈しみの中で出産を終えることができ、神の教えのありがたさを身に沁みて感じたのだ。
 
 享楽と退廃にまみれた生活の罪深さに気づき、赤子は神からの贈り物として修道院に引き取られた。過去の罪を償おうと、夜の稼業からはきっぱりと足を洗い、都に戻ってからも糸車を回して羊毛を紡ぐ暮らしを選んだ。

 一方、新帝ユスティニアヌスも決して高貴な家の出ではなかった。立身出世を夢見てバルカン半島の山村から都に出てきた若者である。ローマ軍の兵士として成功した叔父が、縁者を後継者にしたいと考え、都の教育を受けさせるために招き寄せたのだ。
 テオドラとは、コンスタンティノポリスの路上で偶然に出会った。大型犬に吠えかかられ身動きのできなくなっている彼女を、犬の主人であるユスティ二アヌスが救ったのだ。彼はすでに執政官として、将来を嘱望される身となっていたが、糸束を抱えたまま路上に座り込んでいるテオドラの姿を目にしたとたん、美しさに見とれ動けなくなってしまった。

 まるで純愛ドラマのようなシーンだが、男女の駆け引きにおいてテオドラは、海千山千の猛者だった。「私が狙って、落とせない男はいない」、相手が執政官であることを知ったテオドラの思惑どおりに、ユスティ二アヌスはたちまち彼女の魅力に溺れ、結婚を望むようになった。

 しかし、二人の結婚には、身分違いの結婚を禁じるローマ法が障壁となっていた。また、皇后からも強く反対されており、宴の最中にテオドラが罵倒されることもあった。市民は、このような宮廷内の混乱に対して冷ややかだった。身分違いを責めている皇后自身が、かつては蛮族の女奴隷であり、ユスティニアヌスの伯父である皇帝も、山村の農民出身に過ぎないことは周知の事実で、「成り上り者どうしの内輪もめ」と考えられていたのだ。
 5年後、老齢の皇后が病死するのを待って、ユスティニアヌスは伯父帝にローマ法の改定を願い出た。さらに、伯父帝も亡くなり、テオドラは晴れて皇帝妃となることができた。

《傷ついた栄光》
 ユスティニアヌスは、宗教と政治の結合を強固にすることで、帝国の安定を図ろうと考え、「ローマ法大全」の編纂や、キリスト教の教義の統一あるいは各宗派の融和に取り組んだ。一方、伝統的な多神教に対してはアテナイのアカデメイアの閉鎖、学者の追放など弾圧を強めた。しかし、「眠らぬ皇帝」のこれらの施策を独裁的と捉える者も多く、人材登用の不満と合わせて、守旧派の反発が高まっていた。
 また、テオドラも共治帝として、娼婦たちをつらい境遇から救済する事業に熱心に取り組んだ。しかし、市民の間ではそれを評価する者より、重税への不満と合わせて、臣下4千人を従えて行った湯治旅行や大宮殿の増築などに、皇帝夫妻の強欲を感じる者の方が多くいた。

これらが大規模な暴動に発展したのは、競馬で興奮し乱闘さわぎを起こした市民のグループに、厳罰を科したことがきっかけだった。
 石工のニコラオスと幼なじみのアンドレアスが、7人を絞首刑にした皇帝夫妻の冷血さを罵りながら酒を飲んでいると、いわく有りげな男から、年明けの叛乱に加担するよう誘われた。それは、元老院の大御所ディミトリオスによって周到に準備されたクーデーターの始まりだった。

 新年のヒッポドローム競技場は、10万人の民衆を飲み込み、不穏な空気に満たされていた。やがて、罵声と怒号がわき起こり、皇帝を競技場から追い出すと、民衆は暴徒となって市街地へなだれ込んだ。手始めに首都長官の庁舎を焼き払い、放火と掠奪をくり返しながら、大宮殿に迫った。

 暴動から一週間が過ぎても、皇帝はただうろたえているだけだった。取り巻きの貴族の中にも、家財をまとめ船での避難をすましたものが少なからずいた。皇帝のための船の準備が整い、逃亡計画に署名しようとしたそのとき、「ばか言うんじゃないわよ!」テオドラの怒鳴り声が響きわたった。「怖じ気づいて逃げ出したって、きっと、どこかでつかまって惨めな死に様をさらすだけよ。私は逃げない、王衣こそ最高の死に装束よ!」最後は涙まじりの訴えだったが、これによって皇帝の覚悟は決まった。「鎮圧だ!皆の者よ、決戦だ!」
 ヒッポドロームに篭城している民衆に対し、ペリサリオス、ムンドゥスの両将軍の精鋭部隊が襲いかかった。数に勝るだけで武器も十分でない暴徒の一団には、酔いつぶれているものも多く、逃げ回ることしかできなかった。ニコラオスは命を取り留めたが、アンドレアスは背中に剣を突き立てられた。この夜、虐殺された者は2万人に及び、ディミトリオスなど叛乱を指示した貴族たちも即日処刑された。

《新たなる挑戦》
 命拾いしたニコラオスの獄中生活は1ヶ月に過ぎなかった。暴動で焼け落ちたソフィア大聖堂を再建するために、石工や鍛冶屋には特赦が与えられたのだ。このとき初めてテオドラの姿を目にしたニコラオスは、その神々しい姿に感極まり生涯を捧げるに足る仕事に出会ったと確信した。
 一方、皇帝にとっても、大聖堂の再建は悲願ともいえる大事業だった。これまで、都で最大の建築物としてその威容を誇ってきたのは、有力貴族ユリアナの建立したドーム式教会だったのだ。今回、これを上回る規模で大聖堂を再建することは、誰が真の支配者であるかを示す絶好の機会といえた。
 
 また、東は地中海全域から西はメソポタミア地方まで、かつての領土を蛮族の支配から解放することも、神との誓約ともいうべき悲願の一つであった。
 暴動から1年後、北アフリカを支配するヴァンダル族の内紛に乗じて、ユスティニアヌスは大穀倉地帯カルタゴの奪還に乗り出した。将軍ペリサリオスは、帝国がくり返し破れてきた海戦を避け、陸路を中心に軍を進めた。これが、敵の裏をかく結果につながり奇襲が成功すると、危なげなくヴァンダル王国を滅ぼしカルタゴの奪還に成功した。2年前、暴徒の悲鳴に覆われたヒッポドロームが、今は盛大な凱旋式を喜ぶ民衆の歓声に包まれていた。

《東西ローマ帝国再び》  537年、聖ソフィア大聖堂の竣工が盛大に祝われた。式典の合間に、ニコラオスが皇后の頭像を献上すると、テオドラはそれをいたく気に入り今度は全身像を彫るよう命ずる。テオドラは自分の死期が迫っていることを感じていた。生前と変わらぬ姿を遺すことで、死後も皇帝を慰めたいと考えたのだった。
 ニコラオスがテオドラの彫像に取りかかりはじめた頃、宮殿に出入りのあるニコラオスを頼って、旅の青年が訪ねてきた。アレクサンドリアから、生き別れになった母と会うためにやって来たというのだ。テオドラと瓜二つの顔を持つ青年にただならぬ事態を察知し、ニコラオスが宮殿に知らせると、皇后との短い面会の後、その夜のうちに青年の遺体が海峡に沈められた。
 不運はニコラオスにも降りかかる。彫像の完成が、ニコラオスにとっては像との別れの日だった。老いることがなく、永遠の美を放つテオドラの像は、皇帝だけの独占物なのだ。同じ像を再び彫ることがないように両手首を切断された後、ニコラオスは放逐される。拷問役人によると、目を潰されなかっただけ破格の待遇なのだそうだ。

 555年、大攻勢によってローマ軍は、ついにイタリア全土を掌握した。その栄誉を担った司令官は大宮殿の侍従長ナルセスだったが、真の功労者は将軍ペリサリオスであった。彼は、本国からの十分な支援を得られないまま、ゴート族と一進一退の攻防を10年以上も続けてきたのだ。
 ペリサリオスの苦戦の原因は、意外にも、本国宮廷の中にあった。皇帝をはじめとする重臣たちの多くが、彼の武勲に嫉妬し、わざと勝機を逸するようにしむけていたのだ。
 ローマ帝国一の名将といわれたペリサリオスは、ローマ軍の大攻勢を見ることなく、コンスタンティノポリスに呼び戻され、二度と前線に立つことはなかった。

《見果てぬ夢》
 老いたユスティニアヌスは、20年に及ぶ西方遠征の末に、全地中海世界を掌中に収めることができた。しかし、度重なる戦乱はイタリア半島を死の大地に変え、将来にわたって重税が人々を苦しめる結果となった。
 永遠に美を保つと思われたテオドラの彫像は、558年に聖ソフィア大聖堂の大ドームが地震によって崩壊し、瓦礫の下敷きとなった。また、多大な犠牲と引き換えにしたイタリア半島の大部分も、ユスティニアヌスが崩御した565年の3年後には、再び蛮族に奪い返されることになった。


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