2019年7月27日土曜日

イスラムの英雄「バイバルス」(その①)

「復讐、そして栄光 上・下」(赤羽尭 著、光文社)

 バイバルスは、12世紀にイスラム世界で活躍した武将。十字軍やモンゴル軍の侵略を退け、サラディンと共にイスラムの英雄として功績を讃えられている。
 赤羽氏の著書を参考に、その粗筋を紹介するかたちで、奴隷からスルタン(王)にまで身を起こした彼の生涯を、2回に分けて紹介する。今回はその前編

《 その① 》
 バイバルスは、14才のときに故郷である南ロシアの村で、モンゴル兵に襲われ家族を失った。それ以来、同じ境遇のバイサリーと共に、奴隷として市場に立たされているが、買い手のつかないまま5年が過ぎた。長身で腕は太く長い、鋼のような胸をして、馬上から弓を射ることもできる。脚が曲がっているのは、馬に乗り慣れている証だ。それなのに、ずっと買い手が現れないのは、左目を失明しているせいだった。さらに、幼なじみのバイサリーと2人でなければ、どんな主人の元でもはたらかない、と強情を張ってもいた。

 二人の夢は、マムルークになることだ。マムルークとは、王や大守が所有する奴隷出身の兵士・軍人のことで、実力しだいでは奴隷の身分から解放され、司令官や地方の総督になる道も開けている。イスラム世界では、兵士や使用人だけでなく医師、楽士、教師、管理人など、奴隷にも能力に応じて様々な職業への道が開かれていた。

 二人の買い手となったのは、弓の名手として知られる太守アイダキンだった。家族同様に扱われ、マムルークとしての戦闘技術だけでなく簿記も学ばせてもらえた。何の不足もない毎日だったが、アイダキンがスルタンの機嫌を損ね、財産のすべてを没収されてしまうと、バイバルスら43人のマムルークも、スルタン、サーリフの持ち物となった。彼らは新しい主人の都カイロまで、1000kmの道のりを歩くことになった。

 スルタンとは、宗教的な権威者「カリフ」から、一定地域の統治を許された「王」のことである。エジプトを治めるスルタン、サーリフには、香辛料貿易の商人から得る莫大な税収があり、所有するマムルークも2万人を超えていた。
 カイロでは、騎馬兵としての訓練が重要視されていた。スルタン、サーリフは病身であったが、先見の明を備えており、弓の騎乗射撃はモンゴル軍の戦法から学んだものだった。また、武将に必要な教養を身につけるための時間もあり、選ばれた者は貴族の子息と同じレベルの教育を受けることもできた。バイバルスは、武技の習得だけでなく、寝る間を削って過去の戦術や歴史・コーランの学習に励んだ。

 自由にできる時間は、バイサリーと二人で市内の人々のくらしを見てまわった。その中で、後の人生に彩りを添え、支えとなってくれる人々にも出会うことができた。コーランの解釈に悩むたびに助言をもらったサッファール師。侠客のフセイン。バイバルスの将来を予見しているかのように未来を委ねようとする美女イアマール。

 馬の扱いに慣れていたバイバルスは、軍事訓練で抜群の技倆を示し、2年もすると40騎長に抜擢された。すると、昇進を待ちかねていたかのように、軍の改革に着手した。中でも、スパイの養成と伝書鳩の活用は重要で、サーリフ朝は後々まで、情報戦で他軍を圧倒した。


 1248年、フランスのルイ9世が十字軍を編成して出撃した。エジプト軍の3倍にあたる7万、しかも王は文武両道に優れ平民にも慕われる名君との噂に、怖れを抱く指揮官もいたが、副司令官に任じられていたバイバルスは「彼の地では、王と称していても土豪に過ぎず、これまでの例では戦術や戦略を立てる能力はない」「彼らは、10以上を数えるのがにがてなので、その場にいる兵士を総動員して目の前の敵だけを殲滅するような、粗っぽい戦い方しかできない」と分析し、将兵の士気を鼓舞した。

 しかし、総司令官ファクルッディーンの先遣部隊は、緒戦であっけなく敗れてしまう。十字軍の投石機や強弓による騎乗からの攻撃に慣れていなかったことと、彼が戦闘の最中に戦場を離れてしまったことが原因だった。ファックルディーンは、この責任を問われ総司令官を解任される。
 この戦いから5ヶ月後、十字軍には本国からの援軍が加わり、進撃の体勢が整った。王弟たちの出発が遅れたのは、本国フランスでの資金調達に手間取っていたからだ。その間、バイバルスはエジプト初の海軍を創設し、ギリシア火で十字軍のかけた橋を焼き払ったり、夜襲をかけたりしていた。売春婦を送り込んで色香と伝染病の虜にしようとまでした。しかし、最もルイ王を悩ませたのは、雨期を迎えたアシムーン川の水量だった。

 川による足止めが2ヶ月に及んだ頃、徒歩で渡れる浅瀬を教えるというベトウィン人が現れ、最初にルイ王の弟ロベールと5千の軍勢が渡河に成功した。居合わせたイスラム兵が、突如現れた大軍に驚き逃げ出すと、功をあせる王弟は、軽率にも「全軍の渡河完了を待つまでもない。一気に叩き潰せ」と突撃を命じた。
 元総司令官のファクルッディーンは、朝風呂の最中を急襲され討ち取られた。勢いに乗るロベール軍は、そのままマンスーラの町に攻め込んだが、それはバイバルスの仕組んだ罠だった。辻つじで分断され、完全に包囲されたロベール軍は、彼に従ったテンプル騎士団とともに、1時間ほどで全滅させられた。尚、ルイ王がロベールに「全軍が渡り終えるまでは動くな」と命じた十字軍の渡河は、夜中までをかけてようやく完了した。


 キリスト教徒の断食日にバイバルスは総攻撃を仕掛けた。沼地の多い大平原での決戦にもかかわらず、十字軍の騎馬兵の装備は百キロを超えており、加えて、砂漠から吹きつける強風の恐ろしさも知らなかった。砂塵に目をふさがれ沼地に足をとられる十字軍に、軽装のイスラム兵が風上から一気に襲いかかった。縦横無尽に駆けまわりながら、馬上からでも90mの射程を持つ強弓で狙い打つ。砂嵐が止み、静まった大平原には十字軍兵士の死体の山が築かれていた。
 十字軍には、多くの兵を失った上に伝染病が蔓延し、ルイ王自身も疫病に冒されてしまった。本国への退却を決意したが、追撃によってさらに3万の将兵を失った。王は捕えられ、付き従っていた商人や工人、女性も含めた捕虜の数は10万人に達した。


 チフスを発症したまま監禁されたルイ王は、ヨーロッパよりはるかに進んだ薬剤と治療技術によって、健康を取り戻すことができた。バイバルスは、囚われの身であっても威厳を失わない王を、信頼に足る人物と考え、秘密裏に、相互不可侵の協定を結ぼうとした。しかし、王が返答を保留したまま十字軍は身代金と引き換えに帰国を許され、その後二人が再び出会う機会は訪れなかった。会見の帰り道、バイバルスは密議の唯一の証人であるギリシア人通訳を刺殺した。

 スルタン、サーリフは、すでにこの世を去っていた。十字軍との戦いの最中のことだったので、妃のシャジャル・ドッルが政務を代行し、すぐに、先妻の子トゥーランシャーを急場しのぎのスルタンに据えた。しかし、彼はスルタンの器からはほど遠い、軽薄で疑り深い性格だった。武勲のあった将軍たちを遠ざけ、皇太子時代からの腹心の者ばかりを重用した。
 解雇や投獄にとどまらず身の危険も感じた部将たちは、クーデターを決行しトゥーランシャーを暗殺した。その後、マムルーク朝のスルタンはめまぐるしく入れ替わる。まず、初の女帝シャジャル・ドッル、続いて元総司令官のアイバク、さらにその息子11才のアーリー。この間、アイバクは暗殺され、シャジャル・ドッルも女官たちによって木靴で撲殺された。宮廷内での権力闘争が続く中、僚友のアクタイも皇帝の側近クトゥズの手によって殺されてしまう。見せしめのように、アクタイの首を投げつけられたバイバルスは、マムルーク朝を見限り、カイロから遠く離れたシリアのカラク城に身を潜めることにした。


 モンゴルの大平原に張られた、巨岩のような天幕(ゲル)の中にチンギス・ハンの孫フラーグとドグズ・カトン妃がいた。フラーグは拡大を続けるモンゴル帝国のアジア・アフリカ担当である。1257年12月、西アジア全域とさらにはエジプトをも、モンゴル帝国の領土とするための大遠征が開始された。  

 バグダードはカリフ、ムスタアーシムが支配する人口200万人の都市。古くから経済・文化の中心地として栄え、世界の十字路とも呼ばれてきた。都はフラーグ軍十数万の侵略によって、降伏・開城した後も80万人が虐殺され焼き払われた。カリフをはじめとするアッバース朝の一族や2万4千人の学者など、最終的な死者は160万人に及んだ。街は40日間にわたって燃え続け、経済面だけでなく文化的な面でも、接収されて焼失を免れた図書40万冊を除く全ての資産が失われた。

 モンゴル軍は、シリア一帯の都市・城塞を蹂躙しながらさらに南下を続け、エジプトへの侵攻も間近と思われた。が、カイロでは摂政のクトゥズが幼帝アーリーを廃し、新スルタンを名乗るなど、政情は不安定なままで、治安も悪化の一途をたどっていた。

 そのような中、亡命中のバイバルスを待望する声がしだいに大きくなり、クトゥズも優れた軍略家であるバイバルスの必要性を感じるようになった。一方、バイバルスも、モンゴル皇帝モンケ・ハンの死期が迫っているとの情報を得て、反撃の好機到来を感じており、クトゥズとの確執を捨てモンゴル撃破のために結束することを決意した。



0 件のコメント:

コメントを投稿