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「復讐、そして栄光(上・下)」(赤羽尭 著、光文社)バイバルスは、12世紀にイスラム世界で活躍した武将。十字軍やモンゴル軍の侵略を退け、サラディンと共にイスラムの英雄として功績を讃えられている。
赤羽氏の著書を参考に、その粗筋を紹介するかたちで、奴隷からスルタン(王)にまで身を起こした彼の生涯を2回に分けて紹介している。今回はその後編
《 その② 》
フラーグは、モンゴル軍を率いてシリアの要衝を攻略しながら、エジプト侵攻の機会をうかがっていた。しかし、本国から皇帝モンケ・ハーン崩御の報が届き、急遽帰国せざるを得なくなった。一方、モンゴル軍を恐れて領内を転々と逃げまわっていたシリアのスルタンであるナースィルは、居所を移すたびに部下の数が減っていくことに気づいた。それは、エジプトの新スルタン、クトゥズが将校たちに自軍への寝返りをそそのかしていたからだった。このように、未曾有の国難に際しても足の引っ張り合いをしてしまうのが、イスラム軍の現状だった。部下が4人しかいなくなったとき、ナースィルはついに捕らえられモンゴル軍への忠誠を誓わされた。命を奪われなかったのは、エジプト侵略の役に立つと考えられたからだ。
無条件降伏を迫るモンゴル軍の使節団がカイロに到着した。将校の中には怖気づく者もいたが、バイバルスが徹底抗戦以外に道のないことを示すと、クトゥズも同意見で、使節団の代表4名の首をはねるとともに先遣隊の指揮をバイバルスに委ねた。しかし、戦術面で両者の意見が一致することはなかった。双方の被害を最小限に抑えようとするバイバルスの作戦は、力押しの短期決戦を好むクトゥズには姑息に思えるのだ。
フラーグの留守を預かる百戦練磨の将キトブカは、多数のスパイや刺客をカイロ市内に潜入させていた。バイバルスの暗殺には失敗したが、エジプト軍の進撃時期を把握することはできた。いつにも増して情報を重視しているのは、フラーグの帰国にかなりの軍勢を同行させたせいで、兵力がエジプト軍の半分しか残っていなかったからだった。また、侠客フセインがダマスカスで反モンゴルの抵抗運動を主導しており、そちらにも兵力を割く必要があった。
この情報戦の中では、バイバルスの親友バイサリーも主要な役割を果たしており、フラーグの帰国もすでにエジプト軍の知るところとなっていた。情報網を束ねるバイサリーは、バイバルスの想い人であるイアマールの居所も承知しており、彼の計らいでバイバルスは出陣前のひと時を彼女と過ごすことができた。
モンゴル軍の、エジプト領内への侵入を防ぐために、バイバルスはシリア領内に向けて進軍を急いだ。初戦の相手には、カイロから500kmの地点で遭遇した。戦闘は短時間で決着がつき、その夜の祝宴では、250名の捕らえたモンゴル軍兵士にも皆と同様に酒がふるまわれた。敵軍の兵士も、捕らえた時点で自軍の兵士となるのだ。
勝利したバイバルス軍に、スルタンから労いの言葉はなかった。クトゥズは、昔からの確執を捨てきれず、バイバルスへの対抗心にのみ囚われているのだ。腹心のカラーウーンのように「エジプト軍をひとつにまとめるために、クトゥズを暗殺する」と息巻く部将たちを、バイバルスは「今は、軍紀の乱れを誘うだけ」となだめながら、「それは、いつでもできる」と心中で密かにつぶやいていた。
シリアの地理にも明るいバイバルスは、カイロから700kmのアイン・ジャールートを決戦場に選んだ。情報分析に基づく布陣を、クトゥズは聞き入れずに討って出るが、たちまち包囲され窮地に陥ってしまう。森への誘い込みに失敗し、モンゴル軍が得意とする平原での戦闘を余儀なくされたのだ。そのため、バイサリーの軍も救出のために動かざるを得なくなった。乱戦が、モンゴル軍有利のまま40分間ほど続いたが、戦況を一変させたのはエジプト軍の放つ鏑矢(かぶらや)だった。自軍の合図と勘違いをしたモンゴル兵に混乱が生じ、キトブカと護衛の一団がバイバルスの待つエジプト軍本隊に突入する形になってしまった。脱走を進める部下に対して、キトブカは「逃げるくらいなら、死を選ぶ」と言い放ち、自らが囮となって部下を逃がした後に捕えられた。
決戦はエジプト軍の勝利で終結した。クトゥズはからくも敵の追跡を逃れたが、彼の救出にあたったバイサリーはモンゴル軍の刃に倒れ、反乱軍を主導していたフセインも処刑された。友の死に慟哭しながら、彼らの犠牲に一片の関心も示さないクトゥズに対し、バイバルスは激しい憤りを感じていた。また、捕虜となったキトブカをなぶり殺しにするよう命じたクトゥズに背いて、部将のジャマールは一刀のもとに首をはね、武人としての敬意を示した。
この戦いを機に、モンゴル軍はシリア全土から一掃された。その第一の功労者はバイバルスだったにもかかわらず、論功行賞での扱いは不当に低いものだった。これは、故意に反抗心を抱かせ、処刑の口実を作るための罠と思い至った彼は、どちらかの死によってしか決着のつかないことを覚悟する。1260年、ウサギ狩りを利用してついにクトゥズを暗殺し、バイバルスは玉座に座った。民衆は歓呼の声で迎え、傲慢で冷酷だったクトゥズの死を悼む声はなかった。彼の配下だった将兵たちも皆バイバルスへの忠誠を誓った。
国家が民意から離れて一人歩きをすれば、かならず崩落の道をたどると考え、バイバルスは税制や裁判制度、あるいは行政組織などを整備して国力の充実に取り組みはじめた。その頃、フラーグはキトブカと並ぶ腹心のバイダラに指揮権を託し、バイバルスへの復讐を命じた。シリア地域の首長たちはバイダラ軍に対し、命乞いをするばかりで無抵抗のまま要塞や都市を明け渡していった。
万策がつき退却もままならなくなった時、ザーミル・イブン・アリーというアラブ人が手勢を率いて救援に現れた。少数ながら精鋭の彼らは、果敢に戦いを挑みバイダラ軍をアレッポまで退却させることに成功した。やがて、カイロからバイバルスの派遣部隊が到着すると、バイダラ軍はアレッポからも追い払われ、エジプトに束の間の平穏がもたらされた。
バイバルスは、古代のオアシス都市パルミラへの旅行にイアマールを誘い、プロポーズをする。が、イアマールは、政略結婚が必須のスルタンにとって、私の汚れた仕事はその妨げになると胸の内を明かし、その夜は娼婦のための更生施設の礼だけを言った。翌朝、バイバルスが目覚めた時、イアマールの姿はすでに消えていた。
また、旧恩あるアイダキンが不遇な余生を送っていることを知ったバイバルスは、カイロに招き、わずかに残ったクトゥズ派残党の討伐軍5千騎の総指揮を任せるなど厚遇した。
古くからの友人や恩人との出会いと別れがある中で、バイバルスはスルタンとして、イスラム教徒とマムルーク軍のためにすべての時間を捧げていた。バイバルスには、兵士と民衆がなごやかに語り合う光景が、ともに生きる喜びを分かち合うイスラム教徒本来の姿に見えた。
暗殺によってスルタンとなったバイバルスは、宗教上の権威者であるカリフの承認を得ることで、その地位を正統なものにしたいと考えていた。しかしそれは、叶わぬ夢のはずだった。カリフの血統がバグダードの陥落と共に途絶えていたからである。ところが、保護を求めてカイロに身を寄せた者の中に、一族の血を引くハリーファという人物がおり、バイバルスは運良く合法的な正真正銘のスルタンになることができた。ところが、ハリーファはカリフらしからぬ伝統に背いた言動や傲慢さのために、ほどなくバイバルスによって謀殺された。
モンゴルの新皇帝が決まり、フラーグの前線復帰が警戒されるようになった。バイバルスは、モンゴル王族ではあるがフラーグと不仲のベルケと手を結び、フラーグ軍の動きを封じようとした。また、その糧食や飼葉(かいば)を断つ目的で、進路と予想される草原を200km以上にわたって焼き払った。これは、フラーク軍が10日間に進軍する距離にあたる。一方、フラーグは後々のヨーロッパ進出を見据えて、ビザンティン帝国の王女マリアを側室に迎えることにした。
モンゴル軍を打ち破ったスルタンとして、バイバルスの声望が高まるにつれ、エジプトとの同盟を望む国が増えてきた。また、モンゴル軍の中からもフラーグの酷薄さを嫌い兵を引き連れてイスラム軍に寝返る部将が現れるようになった。やむを得ず、フラーグは本国からの増援を待つことにしたが、ハンセン病が悪化して、カイロへの侵攻をすることなく死去してしまう。王女マリアは、旅の途中でフラーグの死を知ったが、大主教の勧めに従って新王アバカとの結婚を承諾した。絶世の美女といわれたマリアだが、この時はまだ13、4の年頃だった。
アバカはフビライに「必ずエジプトを手に入れる」と約束したが、すぐに攻め込むことはしなかった。さらなる援軍を要請するなど、慎重に時間をかけて軍備を増強することから始めた。バイバルスは、アバカ軍に動きのないのを見て、悲願ともいえる大事業に乗り出した。シリアに点在する十字軍国家を追い払うための戦いである。また、モンゴル国内で王どうしの領地争いが続いていることに目をつけ、その分断にも取りかかった。
バイバルス軍の威迫には、戦わずに相手を屈服させる力があった。多くの十字軍国家が降伏する中で、クルル・デ・シュバリエ(騎士の城)は噂どおりの難攻不落ぶりを示した。堅固な城壁に囲まれ、イスラム軍の投石機も歯がたたなかった。さらに城内は石造りの迷路となっており、至る所に落とし穴などの罠が仕掛けられていた。三千人弱の守備軍に対してイスラム軍は五千人の犠牲を出しても大きな成果を上げられないまま、退却せざるを得なかった。喜びにわくホスピタル騎士団に、騎士団総長から新たな命令書が届いた。
イスラム戦史に名高い、騎士の城をめぐる物語はさらに続くが、紹介はここまでにしておきたい。最終的に目的を達したバイバルスは、騎士団を追撃せず見逃す。しかし、常に彼が寛容だった訳ではない。サファードでは、命を保証するという約束を反故にして、改宗を拒んだ騎士団の全員を死刑にした。また、アルメニアでは意に添わない国王の税収を絶つために、町を焼き払い納税者である多数の市民を殺戮した。このような、苛烈な処置に対して腹心のカラーウーンはしだいに批判的な態度をとるようになる。
キリスト教国の城が、次々に陥落しているのを知り、フランスのルイ九世は、再び十字軍を率いることにする。第8回十字軍の遠征は1270年に開始された。
また、その7年後にバイバルス軍2万8千とモンゴルの先遣隊3万3千が、アブルスターン平原で衝突する。数で勝るモンゴル軍だったが、その内の2万が戦いに加わることなく逃走してしまう。指揮をとるパルワーナがバイバルスに買収されていたのだ。それでも戦闘は激烈を極め、決着するまでに4時間を要した。
遅れて到着した総司令官のアバカは、モンゴル軍の壊滅した戦場を検分しながら、パルワーナ軍の死体が見当たらないことに気づいた。裏切りを見抜き、彼を処刑するとともにバイバルス軍の追跡を始める。・・・後略
ルイ九世による十字軍やモンゴル軍のアバカなど、難敵にすべて打ち勝ち、バイバルスはイスラム世界の英雄になる。一方で、親友のバイサリーをはじめサッファール師や愛人イアマール、あるいは侠客フセインやモンゴル軍のベルケなど、青年時代からの彼を知る人々や盟友を失い、彼の後半生は寂しげである。
バイバルスは、多忙な政務の合間をぬって催した宴の最中に、体調を崩しそのまま帰らぬ人となる。側近に毒を盛られたのだ。彼の死後、二人の息子がスルタンを継ぐが、どちらも短命に終わる。マムルーク朝は、その後も中継貿易の拠点として栄えたが、バスコ・ダ・ガマのインド航路発見(1498年)をきっかけに、衰退の一途をたどるようになり、16世紀初頭に確執の生じたオスマン朝からカイロを占領され滅亡した。
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