2017年10月27日金曜日

⑦ 寛容の帝国「ペルシア」


前540年頃のペルシア帝国
 アッシリアが滅亡した混乱の時期、ペルシアは弱小な一勢力でしかなかったが、スキタイ人から騎兵術を学び、軍事技術と情報伝達に習熟していくなかで、頭角を現した。キュロス二世のときに、メディア地方やアルメニア地方など良馬の産地を征服下におき、この頃からアケメネス朝ペルシア帝国と呼ばれるようになった。勇敢と子だくさんを美徳とし、乗馬と弓術と正直の3つが教育の要で、他国の長所に敏感に反応して進んで取り入れる気風を備えていた。


キュロス二世
紀元前600年頃 - 紀元前529年
 アケメネス朝の始祖とされるキュロス二世は、バビロン捕囚のユダヤ人を開放したことで知られているが、多民族の伝統や宗教を尊重する寛容な態度が統治者の理想像として他国民からも評価されていた。

 キュロス王の後継者となったダレイオスの時代には、帝国を20の行政区に分け、それぞれに総督を派遣して支配した。住民5千万人のうちペルシア人以外の者は、各地域の特産物を年貢として納めなければならなかった。記録に「第4区のキリキア地方からは360頭の白馬と銀360タラントン」とあるように、帝国全体からは莫大な量の貢納物が王の元に届けられた。


ペルシア帝国の最大領域
 王宮には、1万人を収容できる建物があり、跪拝礼とよばれる作法にしたがって謁見が行われた。規模は数ヶ月を待ってやっと王の御前に出ることができるほどで、宴会では1万5千人分の食事が用意されることもあった。しかも、このような王宮が全国各所の建設されていた。

 「王の道」と呼ばれる幹線道路と宿駅が整備され、広大な帝国全土への情報伝達が可能になっていた。また、総督の不正を監視して地方の反乱を予防するための「王の目」や、密偵「王の耳」が帝国各地に配置され、地域を越えた商業交易を可能にするための、貨幣の流通や度量衡の統一、共通言語の採用など、後の世界帝国のモデルとなる統治がなされた。

 寛容な世界帝国ペルシアには200年にわたって平穏な状態が続いたが、マケドニア・ギリシア連合軍4万の侵攻を受け、前330年にアケメネス朝は滅亡した。そして、野望に燃えるアレクサンドロス後継者となった。


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