2017年10月26日木曜日

⑥ 強圧の帝国「アッシリア」


 前2世紀後半になると、東の「漢」と西の「ローマ」、二つの世界帝国が出現する。それらに目を移す前に、これまで旧約聖書の記述を中心にたどってきた中東の国々の事情について、もう少し知っておきたいと思う。

 紀元前3千年頃から、ティグリス川の中流域に人が居住するようになった。やがて都市国家アッシュルとなり、交易の中心地として栄えたが、前2千年頃からはバビロニア王国、ミタンニ王国などの圧力を受けるようになった。かろうじて国を保っている状況であったが、前千年を迎え、それらの大国がなくなると、ひしめき合う多数の小国の中からしだいに頭角を表すようになった。

 メソポタミア北方の騎馬遊牧民から襲撃を受けることの多かったアッシリアは、その脅威の中から馬と騎乗に関する知識を蓄え、軍事力を革新することに成功した。初期の戦闘でも戦車106両、騎兵1万騎、歩兵2万が参加している。
 当初は、他国の侵攻によって失っていた国土の回復をめざして始められた軍事遠征であったが、征服地がしだいに拡大し前750年になると、首都を二エヴェにおく世界帝国に成長していた。

二ネヴェ周辺の濃いオレンジ:前13C頃
薄いオレンジ:前18C頃、黄色:最大領域
 サルゴン王朝がその最盛期といわれ、直接統治の属州と間接統治の属国を、200の官職を備えた官僚機構で支配した。
 征服地の金銀財宝を持ち帰り、住民の大量虐殺と生き残った者は奴隷として縄でくくり唇に通した紐でつなぐ等、強圧的な征服者として知られる。

 中でも地域での足場を奪い反乱の芽をつむために行った、大量移住の強制が有名で、後にこの地域の支配者となった新バビロニア王国によるバビロン捕囚もこの手法を踏襲したものといえる。

 しかし、強圧的な支配は帝国の内外からの反発を招き、サルゴン王朝4代目のアッシュル=バニパル王が死亡すると、前609年、またたく間に帝国は崩壊した。

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