2020年7月10日金曜日

古代エジプトの「ミイラ医師シヌヘ」②


「ミイラ医師シヌヘ」(ミカ・ワルタリ 著、木原悦子 訳 小学館)は、古代エジプト文明がもっとも栄えていた紀元前1350年頃が舞台の小説。「この世で最も知恵のある医師」になりたいシヌヘが、召使いのカプタと共に諸国を巡る物語。1945年にフィンランドで刊行された長編小説の「エジプト人」が原著で、それをコンパクトに翻訳し直したものだそうだ。

○ 前半のあらすじ・・・父の後を継いで医師となったシヌヘは、女にだまされ破産する。絶望し自殺した父母に、せめてもの償いとしてミイラ処理を施し、埋葬を済ましたときに一人の男と出会い、彼の復讐を手伝った。

 シヌヘは男と別れると、分け前を持ってカプタの所に行き、以前借りたお金を何倍にもして返した。さらに、彼を新しい主人から買い戻そうとしたが、カプタはお金がもったいないと断り、二人でシリアに脱走することを提案した。運良く三本マストの帆船に乗ることができ、38日かけて海に出た後、さらに7日をかけてシミュラに着いた。

《シリア(シミュラ)》
 そこでの2年間で、シヌヘはバビロニア語を覚えた。尖筆で粘土板に記されるバビロニア語は、他国の知識人と会話するときの共通語で、王と王の手紙のやり取りは、いまだに粘土板で交わされていた。また、シミュラにはエジプト式の鍼(はり)や刃物を用いて治療する技術がなかったので、シヌヘの医師としての名声はたちまちのうちに高まった。商船への投資にも成功して莫大な富を得ることもできたが、どんな黄金も孤独なシヌヘの心を満たすことはできなかった。

 この地の神々の中に、隠れた真理があるかも知れないとも考えたが、シリアの最高神バアルは恐ろしい神で、ご利益の見返りに人間の生き血を求めた。神殿に参拝する者は、巫女の体を買うことで金銀を奉納し、貧しい者は祭壇の供物にするための手足を、ささいな罪でもすぐに切り落とされていた。
 シヌヘの沈みがちなようす心配して、カプタは女奴隷をはべらせることで元気づけようとした。しかし、それはかえって逆効果だった。女は増長してだんだん贅沢になり、しだいに二人とも彼女をもて余すようになった。そこで、歯の治療に来ていたアジル王が彼女を見染めたのを幸いに、「友情の証」と称してタダで譲り、厄介払いをした。

 春、シリアに突如として戦争が勃発した。砂漠の民であるハピル人が、国境を越え、略奪をしながらシリアを北上してきたのだ。迎え撃つファラオ軍の総大将は、シヌヘの旧友ホルエムヘブだった。懐かしさと戦争への興味から、シヌへはファラオ軍に加入した。
 兵士たちが、声をかぎりに叫びながら突撃するのは、恐怖心を打ち消すためだ。数に勝り勇敢なハピル人兵士も、元は飢えた砂漠の民にすぎなかった。豊かな緑野に魅せられ、家族とともにシリア領内に侵入してきたのだ。巧みで冷徹なホルエムヘブの戦術によって、エジプト軍が勝利を収めると、シヌヘは敵味方関係なく手当てをして回った。しかし、多くのハピル人が、子どもの泣き声や暴行を受ける妻たちの悲鳴を聞くと、自分で傷口をかきむしり血を流しながら死んでいった。シムへは、生まれて初めて経験した戦争を、迫害と殺戮(さつりく)以外の何ものでもないと感じた。

 ホルエムヘブは、戦利品を売りさばいて山のような黄金を手にした。商人からだけでなく、略奪を受けた本来の持ち主に返すときにも代金を要求した。がめつく稼いだ黄金だったが、彼はそのほとんどを、シリア周辺の情勢調査に使ってくれとシヌヘに差し出した。一度は断ったシヌヘだったが、ホルエムヘブの威厳に押されて、二度断ることはできなかった。
 シヌヘはすぐに、黄金を港の貿易商の店で粘土板に替えた。この粘土板をさまざまな土地にある代理店に示せば、旅先で好きな額のお金を受け取ることができる。これは、エジプトにはないシミュラの慣習で、現金を運んだり泥棒の心配をせずに旅のできる、便利な仕組みだった。

《ミタンニ王国》
 シムへとカプタの二人は、調査の手始めにミタンニ王国を目指した。小柄な民族で、女は美しく子どもらは可愛らしい。シリア北方のこの小さな国を、ファラオは軍事上の要衝と考え、昔から黄金や武器などを送り支援してきた。それでも、西側の国境付近では、残忍な隣国のハッティ人がひんぱんに侵入し、多くの農民を酷い目に合わせていた。
 この国の医師たちが、頭蓋切開術の話をまったく信じようとしないので、シヌヘは実際に執刀し、患者の頭から悪魔が産みつけたと思われる燕の玉子大の赤い固まりを取り出してみせた。とたんに、シヌヘの名声はとどろき、隣国であるバビロンの王からも招待されるほどになった。

《バビロン》
 バビロンはミタンニ王国の東側と国境を接している。土地は、見渡す限り平坦で、灌漑水路がめぐらされよく肥えている。二人は、世界最古で最大と称する都の、巨大さと豊かさに驚嘆させられた。城壁は小山のように高く、有名なバビロンの塔は天にも届くようだった。らせん状の道路が、塔の周辺をめぐって頂点に達している。広さは、何両もの戦車が横に並んで登れるほどだった。その、塔のてっぺんには占星術師たちが住んでいるらしい。
バビロンの塔と空中庭園

 王からの迎えが来たが、それを追い返し、安っぽく見られてはいけないというカプタの意見に従って、40人の奴隷でかつぐ仰々しい輿(こし)を仕立てて王宮に向かった。玉座に居たのは気難しげな少年で、シヌヘを招いたのは、虫歯の治療をさせるためだった。ほどなく痛みから解放された少年王は、この上なく上機嫌で、ペットのライオンをカプタにじゃれつかせては、その怯える様を見て笑い転げた。

 季節が巡り、春分になるとバビロンは新年を迎える。新年祭の最後の日、カプタは突然に王冠をかぶせられ、偽王に選ばれた。急に、周りから王様として扱われ有頂天になったカプタは、調子にのって後宮にまで入り込んだ。しかし、偽王が日没と共に殺されるしきたりであることは知らなかった。シヌヘが連れ出しに行くと、ちょうどカプタが転がるように逃げ出してきたところだった。ものにしようと迫った娘から殴られたらしい。
 後宮では、一人の娘が大暴れをしていた。身のこなしが素早く、手のつけようがなかったが、シヌヘがエジプト人だとわかると気を許したようすで事情を話し始めた。ミネアと名乗る娘は、クレタ島の出身だった。故郷の神の前で舞をまうはずだったのに、祭りの前に誘拐されてしまったのだそうだ。神に捧げる身を、汚れた男の手に触らせるわけにはいかない。「連れ出してくれ」と頼むのだった。一度は断ったシヌヘだったが、ミネアの端正な顔立ちに心を乱されて、故郷に帰す約束をしてしまった。

 日が沈み、偽王の殺される時刻になった。シヌヘが、こっそり毒薬と睡眠薬を入れ替えておいたので、カプタは埋葬用の甕(かめ)の中で死んだように眠っていた。ミイラ処理をしてやりたいと偽って甕を船に積んだシヌヘは、娘も同じように自害したと見せかけて船に乗せ、そのままバビロンから逃げ出した。
 娘は、救われたにもかかわらず「羊の血で全身がベトベト」などと不平ばかりを言っていた。シヌヘが思わず「このバカ女」とどなりバビロンの神官から古代の知恵を授かるはずだったことや、蓄えた財産の全てを置き去りにしてきたことを言うと、「厄介ばらいをしてあげるわ」と、川に飛び込もうとするので、今度は慌てて引き留めなくてはいけなかった。
 3人は途中で船を捨て、曲芸師に変装して何日も何日も歩いた。国境を越えてミタンニ王国に戻ると、大きな港町でクレタ島から来た船を探し、ミネアの故郷に向かった。
クレタ島の「クノッソス宮殿」
王宮としてだけでなく、行政の
庁舎などの機能も備えていた。

《クレタ島》
 クレタ島はまぶしい光に包まれ、港には千以上の船が停泊していた。「クレタ人のような嘘つき」という言い回しがあるように、この国ではだれもが快楽と衝動に身を任せて行動している。金持ちや高貴な人々だけでなく、国民すべてに清潔で快適なくらしが行き渡っていた。美しい庭や優美な家々が立ち並ぶ国の、歴代の王はミノス、大神官はミノタウロスと名乗るのが慣わしだった。
 大神官によると、クレタの神は生きており、繁栄を保証する神であるらしい。全ての富は海によってもたらされ、海上の支配が盤石なのは、クレタの神が生きた神であるからなのだそうだ。そして、次の満月の夜に、ミネアは神に捧げられる、と告げた。

 満月が三日後に迫った日の夜、ミネアがシヌヘを訪ねてきた。彼女にとって、神の館に入ることは昔からの憧れで、もうそれを拒むことはできないが、神に会ったらすぐに許しをもらって帰って来るつもりだ、と言った。「旅の間に自分は変わってしまったようだ、今は神の館に行くよりは、手をにぎっていてほしい」と打ち明け、シヌヘに身を捧げようとさえした。それを押しとどめ、かわりにその場で二人は結婚式をあげた。そして、シヌヘはミネアの救出を決意した。
 
大神官ミノタウロス


 満月の夜、ミネアは黄金の馬車に乗せられ神の館に向かった。入り口を閉ざしている巨大な扉は銅でできており、かけられた閂(かんぬき)はかなりの人数でないと外せそうになかった。館の奥はそのまま山の中の洞窟に続いているようだ。月が昇ると、黄金の牡牛の仮面をつけた大神官ミノタウロスが、ミネアを連れて扉の中に入った。二人が館の奥に消えると、巨大な扉は閂と共に閉ざされ再び開けられることはなかった。
 もうミネアに会えないと思い、絶望したシヌヘは、カプタと二人で泣いていた。が、いつの間にかミノタウロスだけが館の外に出てきているのに気づいた。巨大な銅の扉は閉ざされたままであったが、その横に小さな出入り口があるのを見つけると、二人は鍵を盗み、こっそりと中へ忍び込んだ。
 館の中は迷宮になっていたが、どの迷宮も生贄(いけにえ)のはらわたを真似たつくりになっている、との言い伝えを信じ、進んだ。カプタは帰り道に備えて、糸玉をほどきながらついていった。やがて、二人はおびただしい人間の遺骸を見つけた。大部分は白骨になっていたが、中には、まだ髪の毛の残っているものもあった。それらに混じって、巨大な獣の死体が浮いていた。頭は牡牛で胴体は蛇に似ている。死んで数ヶ月はたっているようだった。
 この怪物が、クレタの神の正体に違いないと、シヌヘは考えた。ずいぶん昔からこの洞窟に閉じ込められ、生贄として提供された人間の肉を食べてきたのだ。そして大神官は、怪物が死んでからも、守り神の死を隠すために、生贄を連れ込んでは自分の手で殺し続けてきたにちがいない。二人は大声でミネアの名を呼びながら探したが、返事の返ってくることはなかった。ミネアのものと同じ髪飾りを目にしたとたんに、シヌヘは意識を失ってしまった。

 シヌヘはくる日もくる日も酒を飲み続け、手の震えで治療もできないようになって、やっとカプタの忠告に耳を貸す気になった。諸国を巡って身につけた知恵の中に「何ごとも過ぎたるは毒」とあったことも思い出した。ミネアの面影はいつもよみがえったが、悲しみよりも会えて幸福だったと思えるようになった。シヌヘは、はじめて自分の心と向き合う経験をしたように感じた。

《シリア(シミュラ)》
 シミュラに戻り再起を図ろうと考えたが、そこはもう以前のシミュラではなかった。かつての投資による利益はきちんと払い戻してもらえたが「エジプトへの不満が高まっていて、排斥運動が起きている」と、教えられた。実際に、カプタは酒場から放り出され、シヌヘは神殿で暴漢らに殺されかけた。
 以前、歯を治療してやったアジル王から火急の要請があった。1歳に満たない王子が、死にかけていると言うのだ。実際は、乳歯が生えはじめ乳離れの時期がきているだけのことだった。それを教えると、王は大喜びして金銀財宝をシヌヘに与え、国民のエジプト嫌いは王自身が扇動しているのだ、と打ち明けた。野心家の王は、ハッティ人と手を結びエジプトに攻め込む日を夢見ているのだった。

《エジプト(テーベ)》
 シヌヘはアジル王と別れ、すぐにシミュラの家を引き払った。故郷エジプトのテーベに向かう船の中で、見慣れた故郷の丘の頂きを見たとき、港近くの父の家があったあたりで、同じような医院を開くことを決めた。この決意こそが、これまでのさまざまな経験ではぐくまれた果実だ、と感じた。



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