2018年3月11日日曜日

⑮ ローマ帝国(5) キリスト教の拡大

《 キリストの誕生 》遠藤周作 著
 イエスはどのようにして、救世主「キリスト」になったのか?遠藤氏の著書「キリストの誕生」には、ユダヤ教の分派にすぎなかった「イエスの教え」が、短期間で民族の壁を越え、世界宗教の「キリスト教」となった過程が示されている。
 「イエスは、なぜ死ななければならなかったのか?」「度重なる苦難にもかかわらず、神はなぜ沈黙を続けるのか?」十二使徒と呼ばれたイエスの弟子たちは、これらの疑問に答えを見いだしながら、信仰を深めていった。
 ここでは本書を参考に、その困難と苦悩に満ちた歩みを、あらすじ的にたどってみた。

◯ イエスの死
 AD30年、ローマの支配下にあったエルサレムでイエスは神殿警備隊に逮捕された。ユダヤ教の大司祭カヤパの屋敷に引き立てられ、翌日の処刑が決まった。その夜、弟子のペトロもカヤパ邸を訪れたが、それは、「今後イエスの一門はその教えを捨てる。代わりに我々の命は助けてほしい」との取り引きをするためだったと、遠藤氏は推測している。
 イエスの処刑は、群衆に罵倒されながら十字架を背負ってゴルゴタの刑場まで歩いた後、正午に執行された。絶命するまでに3時間かかったが、その苦しみの中で「主よ主よ、なんぞ我を見棄てたまうや・・・」と言った。しかし、それは怨みではなく「・・・汝をほめたたえん」で結ばれる神への信頼を表す祈りの一節だったそうだ。また、民衆や弟子たちに対しても「主よ彼らを許したまえ、彼らはそのなせることを知らざればなり」と、罪の許しを請うた。

◯ 原始キリスト教団の誕生
 遺骸は、イエスに同情的だったユダヤ衆議会員のヨゼフが引き取り、墓に葬った。翌々日に死体が消えたのは、伝説でなく事実なのだそうだ。弟子たちは、母マリアと数人の女性を除いて、処刑を見届けもせずあちこちに身を隠していたが、密かに集まりイエスの死について、その意味を考え始めた。
・イエスは死に際して、裏切った我々を責めず、罪を許すよう神に祈ってくれた。真に愛の人であった。
・イザヤ書(旧約聖書)に、イエスの受難と符合する記述があり、その中ではイエスの復活が予言されている。
 このような議論の末に、師を裏切ったことへの後悔の念とともに、愛の人イエスの復活を信じ・願う弟子たちが集まり、原始キリスト教団が結成された。
 共同で生活し食べ物は配給制、収入源は寄付だが私有財産の所有は認められていた。初代のリーダーペトロは、ユダヤ人の憎しみや迫害から教団を守ることに気を配り、イエス処刑の口実となったエルサレム神殿を冒涜する言動を厳しく禁止した。彼ら自身も、ユダヤ教ナザレ派を自覚しており、イエスも生前は神殿への礼拝を続けていたので、この提案は皆にも納得のできるものだった。

◯ 弾圧と信仰の深まり
 それでも、大祭司によってイエスの復活と再臨の教義がとがめられ、イエスの名を出して語り教えることが禁じられると、ユダヤ教徒のままでいることに疑念を抱くものが現れた。その一人、ステファノは神殿と律法を否定する演説を行った結果、捕らえられ石打ちによって殺された。さらに、同じグループの信者たちも、群衆によって家々から引き出され牢に入れられた。
 一方、神殿への礼拝を続けていたペトロ達のグループは、何も危害を加えられなかったが、しだいに神殿礼拝や律法から離れ、後にはペトロもユダヤ教の禁を犯すかたちで異邦人への布教を行うようになった。また、仲間の死を目の当たりにして、「神は、イエスを栄光の座につけるために、わざと十字架の苦しみを与えた」と考えるようになり、後に、十二使徒のうち11人までもが殉教したと伝えられている。

 ステファノ派の信者の中には、エルサレムの外に逃げおおせた者たちもいた。彼らは離散信徒として、それぞれの地域でも布教を続け教団の活動拠点を広げた。その一つであるダマスコまで信者を追跡していったポーロは、厳格なユダヤ教徒だったが、この地でキリスト教に改宗した。
 ラビ(教師)を目指すほどに強い信仰心を持ち、エルサレムでは弾圧者の一人だったが、離散信徒と接する中でキリスト教の中に「救い」を見い出すことができたからだ。
 改宗後は、従来の律法やタブーに捕われずに諸国での布教に果敢に取り組んだ。彼にとってイエスは「神と人間との断絶を埋めるために天から遣わされた神の子」であった。

◯ キリスト教の拡大とローマ帝国
 ポーロの改宗から4年後の、37年に暴君カリグラが即位した。彼はローマの支配国のすべてに、自分を神として崇めることを要求したので、反発から暴動が起き、西ユダヤでは彼の祭壇が壊された。カリグラは報復としてエルサレム攻撃を命じ、ローマ軍の進撃が開始された。結局は、カリグラが暗殺されユダヤの危機は回避されたのだが、滅亡を予感した民衆に、救世主としてのイエス復活の教義が広く受け入れられる結果となった。
 加えて、世界の果てまで福音を伝えたいとの気概で、ポーロは二度の伝導旅行を敢行した。投獄されることもあったが、ローマの市民権を持っていたため旅を続けることができた。多神教の世界にキリスト教は受け入れられにくい。コリントでは貧しい市民層を対象にしてかなりの成果をあげたが、アテネの知識階級からは相手にされず、エペソでは市民の怒りをかい投獄やむち打ちの罰を受けた。

 苦難の末、ポーロがローマに到着したのは58年だった。当時のローマはネロ帝の即位から5年め。大国際都市として発展し、人種と宗教のるつぼとなっていた。その中でまだとるに足りない存在のキリスト教に注意を払う人はごくわずかだった。未決囚の立場ではあったが、自分の借りた家に住み、訪問者と会い、キリストのことを教え続けるなど、充実した宗教生活を送ったと記録されている。
 ポーロの晩年は不明であるが、ネロ帝によるキリスト教徒虐殺の犠牲になったと考える人もいる。64年に起きた大火の「犯人は皇帝」との噂を鎮めるために、ネロ帝はキリスト教徒を放火犯に仕立て処刑した。記録には「新しい有害な迷信の信者であるキリスト教徒に処罰を加えた」とあり、犬にかみ殺させたり、松明のように燃やしたりして、見せ物にした。

◯ ユダヤ戦争
 66年、横暴なローマ人知事が、エルサレム神殿から宝物を強奪したことをきっかけに、暴動が発生した。ローマ兵が鎮圧に乗り出したが、死者3600人にのぼる略奪と虐殺を行ったために、さらなる民衆の蜂起を招き、ついにはローマ駐屯軍が全滅させられる事態となった。
 ネロ帝は事の重大さに驚き、ローマ軍にユダヤ進撃を命じた。6万の軍勢に対して、ユダヤ人たちは町々を要塞化して抵抗を続けたが、焼かれ虐殺されしだいに蹂躙されていった。軍団がエルサレムに迫った68年、ネロ帝は死亡したが、救い主は現れなかった。作戦は引き継がれ、70年の春に総攻撃が開始された。防壁をめぐる激しい攻防戦の末、ローマ軍が兵糧攻めに作戦を切り替えると、エルサレムでは乾草や革帯も靴も食べつくし、我が子を食べる母親まで出るようになった。毎夜500人以上が、耐えかねて城壁を出たが、捕らえられ見せしめとして処刑された。
 それでも、人々は降伏しなかったが、夏には城壁が破られ、市街に侵入したローマ兵によって人々は神殿にまで追いつめられた。将軍も、はじめはこの豪華な神殿を灰にすることを怖れたが、ついには火が放たれ、虐殺が行われた。町のいたる所が焼かれ、略奪され、聖なる都は灰燼に帰した。

 こうして、エルサレムは陥落した。この地でキリストの再臨を待ち続けた弟子グループの記録は、この前後で途絶えている。わずかな伝承が残るだけで、歴史の表舞台からは消えてしまう。これ以後、教団の活動は異邦人たちを中心とした各地の教会に引き継がれ、キリスト教は民族の枠を越えた世界的宗教としての色合いを濃くしていった。
*「キリストの誕生」(遠藤周作 新潮社 刊)より

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