2018年5月11日金曜日

⑯ ローマ帝国(6)「 背教者ユリアヌス 」あらすじ

 ユリアヌスは西暦330年頃、遷都されたばかりの東ローマの首都コンスタンティノポリスに生まれた。父は、皇帝の弟であるユリウス。新都を飾り立てるための石像を、帝国の各地から集めている。新興のキリスト教に対して、時代に取り残された感のあるギリシア・ローマの神々の像が、神殿から持ち出され運ばれて来ることもあった。皇帝に命じられた仕事だが、ユリウス家では代々伝統的なギリシア・ローマの神々を信奉していた。

 皇帝コンスタンティウスⅠ世は、30年前にミラノ勅令を発して、キリスト教容認の方針を打ち出した。死の直前に洗礼を受け、初のキリスト教徒皇帝になったとも言われている。皇帝が崩御すると、息子たちが帝国を3分割して後継者となった。東ローマの新帝、コンスタンティウスⅡ世は、その即位式の夜に大規模な粛正を実行した。次に帝位を継ぐ可能性のある王族のことごとくと、キリスト教に反感を持つ政府高官の多くが犠牲となり、皇帝の叔父にあたるユリウスの一族も、幼児だったユリアヌスと兄のガルスを残して全員が虐殺された。

 ユリアヌスが10代の頃は、兄とともに警備兵の監視下におかれた。奴隷たちと同じ野外労働とキリスト教徒としての教育を課せられた。ユリアヌスはホメロスを自在に暗唱できるほど古代ギリシアの文化に親しんでいたが、キリスト教徒として洗礼を受ける決意をする。街頭にあふれる貧民や病者たちの救済に、キリスト教会だけが取り組んでいるのを目にしたからだ。情熱的ではあるが、物静かで誠実な若者だった。
 350年、ガリアの大反乱とペルシア軍の侵冦が起きた。苦境に立たされた皇帝は、やむを得ずガルスを副帝に任じペルシア国境の防衛に当たらせることにした。ユリアヌスにも居住の自由が認められたので、学塾でギリシアの詩文を学び、友人と哲学を語り合う日々を過ごせるようになった。ホメロスやプラトンに傾倒するにつれて、教父から与えられた文章を「熱っぽいが内容が単純で片寄っており、粗野で荒削り」と感じるようになり、キリスト教からはしだいに気持ちが離れていった。また、幼いときの虐殺事件についても真相を知った。

 虐殺の首謀者エウセビウス司教は亡くなったが、宮廷内外の実権は侍従長エウビウスと前任者のオディウスら宦官の一派に握られていた。その陰謀によって、兄のガルスが反逆の罪を着せられ処刑される。ユリアヌスにも様々な罠が仕掛けられるが、皇后エウセビアの尽力によりかろうじて危機を脱する。皇后とユリアヌスは互いに「離れては生きていけない」ほどに惹かれ合うが、当然それは死と背中合わせの愛情だった。
 皇帝は、妹ヘレナとユリアヌスの結婚を決め、副帝としてガリア地方を統治するように命じる。しかし、哲学や文学にしか興味のなかったユリアヌスが、副帝にふさわしいと考える者は少なく、宮廷の面々からはあからさまに侮蔑的な態度を示される。また、侍従長の一派はユリアヌスの失脚を狙い、配下の者たちをガリアの高官として多数配属させる。
 
 当初は、兵士たちの失笑をかうこともあったが、ユリアヌスの真摯な態度は、日を重ねるにつれて信頼を高め、「生まれながらにして、将としての才がある」とまで言われるようになった。しだいに「哲学を学びながら『真実』と考えたことは、戦略の面でも真実であることが多い」と実感するようになり、数百人の守備隊でゲルマンの軍勢一万を撃退したり、五万に及ぶゲルマンの部族連合を一万三千のローマ軍で打ち破ったりした。
 国境のはるか向こうまで、ゲルマンを追いやったユリアヌスの快挙は、ローマ全土に衝撃を与えた。民政面でも税や徴兵の軽減、公正な裁判制度など、次々と改革を実行し、ガリア地域の兵士・住民から全幅の信頼を寄せられるようになった。
 一方、ユリアヌスと別れてからの皇后エウセビアは、嫉妬やヘレナの嬰児を死に追いやった自責の念など、懊悩の末に息を引き取る。また、ヘレナも妊娠や流産の無理が重なり、時を経ずして亡くなってしまう。

 ユリアヌスが名声を得るほど、皇帝の不安は大きくなる。それにつけ込んだ侍従長エウビウスらの進言によって、ガリア騎兵隊にペルシア国境への転属命令が下る。アルプスをはるかに越えた砂漠地帯への転属を命じられて、ガリア地方では住民を巻き込んだ騒乱が発生する。群衆はユリアヌスの居住するルテティア宮殿に押し寄せ、ローマからの独立を懇願した。住民への同情と叛乱の無謀さの板挟みになりながら、ついには皇帝との対決を決意しコンスタンティノープルに向けて進軍を開始した。
 電光石火の快進撃であったが、内外からの反撃が強くなり始めた矢先、コンスタンティウス帝が急死する。侍従長エウビウスらは「ユリアヌス討伐」を呼びかけるが、それに応える者はなかった。ユリアヌスへの帝位の移譲が、遺言によってなされていたからだ。


 皇帝としてのユリアヌスは、帝国に秩序と正義を確立させるための改革を、性急に進めようとする。しかし、贅沢に慣れた宮廷人には煙たがられ、東方の中心的なキリスト教都市アンティオキアでは嘲笑の的にされた。学問の成果を否定し皇帝の権威も認めようとしないキリスト教徒を、寛容の精神で説得しようとするが、神罰とも思える大火や地震が発生するなどして成果を得られないまま、ペルシア遠征の日を迎える。
 ローマ軍は周辺の要塞都市を次々と陥落させ、ペルシアの王都クテシフォンに迫った。しかし、友軍と合流できなかったために糧食や装備が乏しいままの行軍を余儀なくされ、ユリアヌスは目的を果たせないまま、砂漠の中の戦闘で負傷し死亡する。  
*「背教者ユリアヌス(上・中・下)」辻邦生 中公文庫より

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